垂直に落下する無気力な「感覚」、それに伴って、透明の「水源」が気化上昇する無重力な「感覚」、脱臼した「身体」は宙に浮かび、真っ逆さまに落下する「意識」が、それを見詰めている。それは、正しい「位置」を失っている。深く暗い「不安」に「場所」を委ねている。私の目の奥の「洞窟」の「底」が抜け落ちたのです。恍惚なる「闇夜」をどこまでも墜ちて行く奇妙な「感覚」が、私自身の「意識」を呼び戻したのです。
三月ウサギが単なる「言葉」の語呂合わせだったという「知識」は、落下する「意識」の「壁」に貼り付いていたものでした。それは、ロンドンの赤茶けたレンガの「壁」に貼られたポスターのようにして、気紛れな「風」に遊ばれていたのです。アリスの「寓話」に秘められた尤もらしい「解釈」が、果たして的を射たものであるのか、的を外したものであるのか、その「解答」も宙に舞っている。誰かが放った無数の「矢」が、欺瞞に満ちた「闇夜」を彷徨っている。それらは、「真実」には到底到達し得ない。
偶然と言えば言い訳になるが、フロイトの「顔」が、まるで通りがかりの見慣れた「犯人」のようにして、あの「壁」に映し出されたのです。それは、「鏡」のなかの「死人」のように蒼白く視えました。恍惚なる「闇夜」に科学の「光」が射し込まれようとしている。私の狼狽を「分析」されてはいけない。私の赤面を「観察」されてはいけない。あのプライベートな「感覚」に対して、性的な「解釈」が成されようとしている。
「読書」は止めよう。「知識」を捨てよう。さもなければ、私の「思考」は無名性と匿名性の「他者」に支配されてしまう。次々と「矢」は放たれている。私の「意識」は、それに脅えている。無邪気な「感情」の暴走を防止しなければならない。全てが何の「根拠」も無いという「前提」でのゲームに参加すべきなのだろうか。「戦争」は既に始まっている。無防備な私は、一体全体誰に向かって「矢」を放てばいいのだろうか。
必然と言えば言い訳になるが、「話題」を変換する必要性に迫られた「私」は、あのナルシスの「水源」に行こうと思い立ったのです。ところが、透明だったはずの「水源」は、ドロドロと濁った「沼池」に変貌していたのです。それは、エロス的身体と呼べるものでした。その傍らには、あの清らかな「水仙」は消えて無くなり、巨大なチェシャ猫がニヤニヤと不気味に笑っていたのです。
「笑わない猫」が「猫のない笑い」へと変換変異する。「語句」が並び替えられる。「意味」ははぐらかされて、時に茶化されて、時に肩透かしを食らっている。それらの「言葉」の遊びから生まれたイメージが、強烈に自己主張をするキャラクターとなって、私の目の奥の「洞窟」の「住民」となったのです。
どうやら、私は無意識の「沼池」に足を踏み入れてしまったようでした。この無意識の「領域」では、多くの謎めいたイメージが生成消滅を繰り返していたのです。「善」と「悪」ですら、渾然一体となっていたのです。私は、この「混沌」のなかにあって、目の前で展開する表層的な「現実」を遥かに超えた規模で存在する、もう一つの深層的な「現実」の存在を「直感」したのです。
重く静かに沈んで行く「過剰」のなかで失われる「感覚」、その「感覚」を追い掛けて行くと、まるで泡立つ「濃霧」が晴れ渡るようにして、新たな「認識」が見得て来たのです。私はたじろぎ「恐怖」する。私はしりごみ「憂慮」する。と同時に、ある種の安心と厳粛なる「感情」に満たされる。外なる「言葉」と出会ったのです。その硬質で、曖昧さを削ぎ落とした厳格なる「言葉」と出遭ったのです。そこには、この「世界」の「意味」があった。そこには、私の欲する新しい「力」があった。
確かに、はじめに「言葉」があったのです。「言葉」こそが「世界」を定義して創造して、それに「意味」を与えて来たのです。ならば、私の見える「世界」を、私の「言葉」で表わそう。それが、どれほど拙く幼い自信の持てない「文章」であっても、「他者」に読まれることを「前提」にした、私の「言葉」を発しよう。その「目的」に向かって、私の「矢」は放たれたのです。