降り注ぐ月の光に合わせて踊り続けることにいささかの疲れを感じていた私は、このシナリオの無い「寸劇」の幕が早く降ろされ、この小劇場には似つかわしくない重厚な扉が速く閉じられることを願っていたのです。扉の向こうのレアールな「世界」では、「死」のカーニバルが開かれているのでしょうか、人々の絶叫に近い悲鳴とともに、炸裂する花火の尾を引いた残り火が、劇場内に次々と転がり込んでいたのです。そしてそれらは、扉が閉ざされると訪れる「無音」のイデアールな「世界」を予告するかのように、自らの残された「時間」を愛おしみながら「燃焼」し、不可逆的に増大するエントロピーを映し出していたのです。鉄パイプ製の折畳み椅子は、次々にパタンパタンと閉じられながら、擂り鉢状になっている円形劇場の中心にある「The Empty Stage」に向って、まるで意志を持った「生物」のように滑り落ちたのです。私は、その蟻地獄にも見える「空虚な舞台」に呑み込まれないようにと、ありったけの抵抗を試みました。しかし、椅子の在った階段状の客席までもが、数個の大きな破片と無数の小さな破片に砕かれ、それらが更なる細分化を繰返しながら、一方向に不可逆的な流砂を形成し始めたのです。ここでも、増大するエントロピーは、物理的な「時間」として認識されたのです。私は、この真昼に演じられる「寸劇」の幕を自ら閉じるには、この流砂に逆らってはいけないことを、何かにしがみついてはいけないことを悟り、この「時間」の呪縛から逃れることであると自らに言い聞かせたのでした。私の「意識」は、まるで砂時計の砂のように「舞台」という「入口」から落ちて消え、それと時を同じくして、真夜中に演じられる「夢想」の幕は開かれたのでした。この暗い地下の闇の「世界」には、至る所に篝火として灯された「松明」が揺らぎ、その光に照らし出された黄色い岩肌には、弁柄や緑青や白緑で線刻された「絵画」が立ち現れて来るのです。しかし、それらの「絵画」は、現在から過去の経験を意味付け、未来の可能性を思索するという因果的連鎖が断ち切られたものであり、その意味では刹那的であり、可逆的でもあったのです。つまり、時間的連鎖を超越した「世界」が描かれていたのです。私は、私自身の「意識」から消え去った、これら忘却と欠落と幻想の「絵画」を視入ることにより、意味エントロピーの増大は抑制され、再び真昼の「寸劇」の幕が開かれるというメカニズムを理解したのです。それにしても気になるのは、闇を暴き出すはずの光が届かない「The Silent Corner」に蹲る人々の「存在」なのです。それは、過去に何処かの街角ですれ違った女なのか、それとも未来に何事かの集会で隣り合せになる男なのか、彼等の「存在」は決まって暗示的で不明確でありながら、彼等の放つ「気配」は決まって断言的で明確に立ち現れて来るのです。そして彼等は、「沈黙の片隅」から手ん手バラバラに立ち上がり、円錐形に積み上がった流砂のピラミッドから折畳み椅子を引き出し、それらを整然と並べ始めたのです。私の椅子は左から2番目に置かれ、そのことに特に「意味」は無かったようです。最前列の6脚の椅子には、6人の男女が「無言」の内に座ることになりました。12個の眼球が見つめる前方の岩壁には別の洞窟への2つの通路が空けられていて、その中間の岩肌には「1つおよび6つの椅子」という文字が淡墨で書かれていたのです。「概念」が提示されるやいなや、「空間」は薄っぺらなものに変質し、空間認識能力の劣ると見なされた3人が席を立つことになりました。残った3人は右側の洞窟へと案内され、お互いに全く面識が無いことを確認し合ったのです。すると今度は、やはり2つの通路の中間の岩肌には「1つおよび3つの椅子」という文字が濃墨で書かれていたのです。そして、その文字の真下には1つの物理的な「椅子」が置かれていました。この「世界」の「出口」から急遽、呼び戻された私の「意識」は、これは「芸術」が問われているのか、それとも「存在」が問われているのかを悩み始めることになりました。しかし、これが私の苦手とする数学的知識が試されているとしたならば、椅子取りゲームの「椅子」は1つしか残されていないのであり、生残りのためには一刻も速く椅子に座るべきなのです。私は焦りました。と同時に救われる思いでもあったのです。なぜならば、私たちの「存在」は、どのような6人であっても、お互いに全く見知らぬ3人から構成されているという「関係」を、数学的には既に「証明」されていたからなのです。