これからは「雄猫」はバローと呼ぶことにしよう。私は「夢」の中の「私」に、そう言い聞かせたのです。ところが、「手」と「足」ですら覚束無い「私」からは、「発声」と「発音」という「機能」は奪われている。「発念」するしかない。「時計」の如く「本質」が「存在」に先立つものでもなければ、後ろに見えるものでもない。私は「夢」の中で呼び掛けました。振り向いたのは、バローに違いないと「私」に言い聞かせたのです。
兎に角、「脱兎」の如く「状況」は慌しく「変化」していたのです。何人かの「店員」の冷やかな「視線」が「鋭角」に突き刺さる。「私」はバローを持ち帰る「箱」を作っている。段ボールを「点線」に従って切り抜いては、横を見遣ると、バローが巨大化していたのです。一回り大きな「箱」を造らなくてはならない。その「儀式」を繰り返すことによって、私達は「心」を通わせることができると、刹那に感じたのです。幸せな「一瞬」も在る、それが「夢」の「本質」を切り取っているのかもしれない。
段ボールは直ぐに「底」を突きました。その四角の「底」を通して、バローの悲しげな「顔」が見えたのです。急がなくてはならない。一刻の「猶予」も儘ならない。新幹線は「定刻」の「発車」を自己目的としている。「本質」は「存在」の先を走っている。
エレベーターが最適の「箱」となって、「定刻」に上昇して来ました。私はバローに「告白」しなければならない。密室への「恐怖」を打ち明けなければならない。ところが、「扉」が勿体ぶって開くと、無数の玩具の「空箱」が閉じ込められていたのです。もちろん、新幹線の「箱」も空っぽでした。我々の「空間」は無いが、「空席」は在るかもしれない。
次の「選択肢」は限られていましたが、我々は非常口からの螺旋階段の「存在」を予見したのです。恐らく、それが未来からの「記憶」と呼べるものでしょう。螺旋状の「階段」を上から視ると、クルクルと回転しながら、元の「位置」に戻っているように見えるのです。ところが、横から視ると、事物が螺旋的に発展する「進化」の「過程」のように見えると言うのです。私の「知識」が、「夢」の中の「私」とバローを観ていたのです。彼等は「階段」を降りることで、「退化」の「過程」を歩もうとしていたのです。
「階段」を降りながら、「半身」になって振り返ると、「私」とバローの「位置」が逆になっていたのです。抱き抱えていたはずのバローは等身大となって、しかも二足歩行で「階段」を下っていたのです。周りはと言うと、宇宙のような「暗闇」が拡がっていました。不意を突くようにして、不気味な「肺魚」が巨大な「口」を開けて現れて、テレビの「残像」のようにして消えて行くのです。
カラーンと「空虚」が溢れ出るかの「静寂」が響いて、螺旋階段が地下の「通路」に導かれたことを報せました。「天井」からの「水滴」が黴臭さを運び、それが「無音」が故の「激情」を煽るのです。すでに「劇場」は開かれ、屋根裏での「取調」は始まっている。「通路」の「扉」を開けてはいけない、怪力の「番人」が待っていると、バローの「動揺」が伝わって来ました。カフカの「審判」での「演技」と「興奮」が蘇って来たのです。