あなたが「赤い金魚が泳いでいる」と呟きながら、閉じた目蓋をゆっくりと開けようとしていた、正にその時、私は、あの天平の斑鳩の里の平遠な大地を心象に蘇えらせようと、開けた目蓋をしっかりと閉ざそうとしていたのです。ところが、淡墨を幾重にも重ねて生まれるモノトーンの暗闇から、ゆっくりと姿を現して来た生き物は、意外なことに赤い金魚ではなく、鱗から墨汁を煙霞のように撒き散らしながら泳ぐ、まるで鬼瓦のような無骨な顔つきの黒い蘭鋳だったのでした。蘭鋳は鰭を動かすのを止め、「すうっ」と近付き、そのまま私の目蓋の内側に止まったのです。背びれの無い蘭鋳の静止する姿は、張りつめた緊張の瞬間の連鎖のなかに、この奇形の生き物の悲哀と尊厳の歴史を無言の言葉で語り掛けているのでした。そして、その蘭鋳は、太く逞しい尾筒に推進のエネルギーを蓄え、一気に「ぶるん」と身体全体を使って、再び前方の淡墨の暗闇に消えて行ったのでした。暫くすると、その墨絵のような薄暗がりの拡がる空間に、仄かな朝焼けの気配が漂い、今度は、あなたの「黒い犬が吠えている」と言う声が、何処からともなく聴こえて来たのでした。私は躊躇うことなく、床の間に掛けてある一幅の山水画に見入ったのです。なぜならば、そこは私の心の「桃源郷」で在り続けた場所であり、声の発生源はそこに在るに違いないと思ったからなのです。「山水」は先ず一瞥すると、左右に空間を拡大し、下方の渓流の流れを遡るように、上昇する動勢は雲のように重力から自由となった岩石にまで一気に駆け上がって行くのです。そして急拡大した空間が一定の平衡状態に至ったならば、今度は、「じわり」と心洗われる光と酸素に満ちた大気が空間を埋め尽くして行くのでした。まさに「気韻」は生動し峻発して来るのです。生命が「自己複製を繰返すシステム」と定義されるならば、そしてエントロピーの極大化を回避すべく常に外部からの秩序を導入する動的で有機的な存在であるならば、この「山水」という静的で無機的な存在から湧き出して来る生命感にも例えられる「気韻」とは、いったい何を映し出し、何を再生しようとしているのだろうか。この永遠の謎が、私の脳内でいつものように無限のループとなるのです。それが仮に、心の理想とする境地や在り方を映し出す鏡のような存在であるならば、私たちは、この心象風景を観ることにより、その理想性を複製し、自らの内面に写し取ることができるのだろうか。そのようなことを考えながら歩いていた私は、「山水」の中腹辺りに在る、生命の源であり絶えることなく流れ続ける清流に架けられた小橋を渡り、山道に沿った岩肌にへばり付くようにして咲く山野草の可憐さを愛でながら、また時には巨木の大らかさに癒されながら、視界が大きく開かれる空間に辿り着いたのです。その空間には、赤、黄、橙など色鮮やかに紅葉した樹々の木立を背景にして、藁葺き屋根の慎ましやかな住いが、人と自然の理想的な調和の在り方として、私の目の前に現れて来たのでした。そして家屋の右手の崖淵には、「山水」では蟹の爪のような誇張を加えられた筆法で描かれていたはずの一本の「赤松」が、岩石にしっかりと根を張って、風雪に耐えながらも泰然とした風情で、人の処世の在り方を示しているのです。このように、「山水」の画面全体には、いくつかの象徴機能を付加された自然の景観と形象が、絶妙のバランス感覚の下に配置されていて、それらは無声の詩情を醸し出しているのです。家屋の左手の断崖には、小滝が永遠の時の営みの証を人為的な意図を排した線刻として残し、水はそのまま家屋の前方に在る小さな池の水源となっているのです。池はほとんど真円に近い形をしていて、鏡面のように澄み渡った青空を美しく映し出しているのでした。暫くすると、水面には五つの白い雲が漂うように映り、それらの雲は、中央の大きな雲を中心にして、左右対称に二つずつ並ぶという形式を取っていることが分かりました。その時、犬が吠えたのです。中央の大きな白い雲は揺れ、その前には大きな黒い犬が立っていたのです。私は、小さな四つの白い雲は、恐らく小さな四匹の黒い犬の影であろうと思ったのです。そして、確かに赤い金魚は、小さな池の中央に浮上して来て、尾鰭の一描きの生んだ波紋が、白い雲たちを消し去ったのでした。私は、この小さな池には、あなたの心が映し出されていたに違いないと思ったのでした。