自転車が自動車に変わっている。窮屈で退屈な運転席に閉じ込められている。「私」の両腕は両翼に変わっている。その「翼」を広げて閉じる、その基本的な「自由」が奪われていたのです。デジタルへの「恐怖」が「身体」を強張らせて、誰かからの「情報」を待っていたのかもしれない。自動車は一体全体、私を何処に連れて行こうとしているのだろうか。
「意識」は二重の「扉」で閉じ込められている。その「現実」を「感覚」はリアルに捉えてはいるが、そのことを「意識」は認めようとはしない。暫くすると、溶ろけるような「誘惑」が向こう側から訪れるのです。その「誘惑」が「私」を深い眠りへと引き込むのです。暫くすると、もう一人の「私」が向こう側から戻ってくる。「夢」の中の「私」は一体全体、何処に行っていたのだろうか。
自動車は自動で動く、「密室」となって移動する。そのことの身体的な「意味」が分からない。その「恐怖」の「感情」を増幅させたのは、何処かから聞えてくる「音楽」でした。その「音楽」は粒々のデジタルな「音」に分解されていたのです。それらのゼロと一からなる「音」を再び集めると、永遠なる「音源」が再現できるという「幻想」が視えて来たのです。
そこでは、クオリアもノイズと一緒に「排除」されている。諸行無常でない「世界」が創られている。そこには、「死」を暗示する「暗闇」が視えない。「情報」としての「音楽」しか聞えない。「音楽」は「身体」を通り抜けて行く。
表の「意識」には連続性と秩序が、裏の「意識」には非連続性と無秩序があると、「紐」のように見える「蛇」は賢者となって語る。そのカオスとランダムが支配する裏の「世界」で、身を捩じらす「蛇」のようなクネクネの「轍」が視えて来たのです。私の「車輪」はドロドロのぬかるみに足を取られている。四輪車は二輪車となって、「私」の両足は両輪に変わっていたのです。
この先行する「轍」に「命運」を託してはいけない。さもなければ、自転車はバランスを失ってしまう。自動車ならば低速ギアに落とすべきだが、自転車ならば三人乗りが望ましい。「夢」の中では、願えば「夢」が叶うのです。ハンドルは右に切られて、私達は砂砂利の「道」に乗り上げることができました。もちろん、「蛇」の「力」は借りずにでした。
暫く道なりに走ると、左側の難民キャンプと右側の異邦人の「花屋」が視えて来ました。トルコ人とイラン人とシリア人の「花屋」が並んでいたのです。私達は、もっとも貧しく誠実そうに見えるシリア人から、もっとも豪華な瑠璃色の「薔薇」を買ったのです。
その「光景」を、私服警官の猜疑心の「視線」が釘付けにしたのです。異邦人は私達だったのだろうか。パトカーの回転灯が「血液」を撹拌するのが「目撃」される。真っ赤に鳴り響くサイレンの「音」が聞える前に、この「場所」から逃げ出さなければならない。瑠璃色の「薔薇」が一枚二枚と散る前に、新しい「工場」に逃げ込まなくてはならない。アナログの「世界」には、きっと「雑音」にも「意味」が残されているはずでした