真実の「映画」を観に行こうと誰かに耳打ちされる。せめて一夜の「夢」を見たかったのです。その甘く切ない「言葉」が、耳の奥の「洞窟」に木霊していたのです。泥のような「暗闇」に足を踏み入れる。ちっぽけな「天窓」さえ一つも無い。まるで岬の先端の「灯台」のようにして、渇望の「焦点」が遠くに視えたのです。
「両耳」のちょうど中間の少し右寄り辺りだろうか、その「洞窟」には、まるでナルシスの危うい「面影」のようにして、透明の「水源」が揺蕩っていたのです。私は凝視する。その「水源」に寄り添うようにして、白い「水仙」が咲いていたのです。暖かい「春風」が吹き抜けて行く。温かい「東風」が追い掛けて行く。私は仰視する。その「水仙」に寄り従うようにして、白い馬の「耳」をした「男」が立っていたのです。
「時刻」は九時半を回ろうとしていると、その「男」は言いたげな素振りを見せました。彼は「時間」が経つのを見計らい、時折、その真っ白な「歯」を見せて笑うのです。それは、時計仕掛けの「笑顔」のようでした。全てが見透かされているという「懸念」が、放たれたスローモーションの「弾丸」となって、私の「脳裏」を通り抜けたのです。
もう一度「時間」を確かめようと、私は腕時計を覗き込みました。すると「時刻」は七時半に逆戻りしている。腕時計の「秒針」が狂ったように逆走している。その「秒針」を臆病で小心者の「白兎」が追い掛けている。「時間」は残されては無いが、真実の「映画」には間に合うかもしれない。
私は「我」を忘れて「夢中」を走りました。もともと「我」など無いことを忘れて、「洞窟」を迷走したのです。「真夜」の映画館は閉じていましたが、「真昼」の帽子屋は開いていました。そもそも帽子屋は狂っていると耳打ちしたのは誰なのか。私は懐疑する。私を疑惑する。その「白兎」のような形振りを見て、気違い「帽子」が笑うに違いない。事実、その真っ白な「歯」が、すでに文字盤の奥の「暗闇」に視えていたのです。
真実の「映画」は永遠に上映されないのかもしれない。その「証拠」として、「真夜」の映画館は閉じられていたではないか。その暗く切ない「不安」が、目の奥の「洞窟」に投影していたのです。虚偽の「映画」が上映されていたのです。寒々と「秋風」が駆け抜けて行く。軽々と「北風」が追い越して行く。気違い「帽子」は笑い転げて、白い「水仙」は勿体ぶった様子で微笑んでいる。白い馬の「耳」をした「男」は、相も変わらず、何も聞こえない素振りを決め込んでいたのです。
透明の「水源」の近辺では、鮮やかな色彩の「蝶」が狂ったように乱舞すると耳打ちしたのは、年老いた「盲目」の予言者でした。真実を視ることなかれ、知ることなかれ。然れば、汝は生き永らえるであろう。彼女の目の奥では、美しくも毒々しい無数の「蛾」が舞っていたに違いない。私の目の奥では、真実の「蝶」が舞っている。虚偽の「蛾」が舞っている。私は混乱する。私を消失する。兎にも角にも、この目の奥の「洞窟」から一目散に逃げなくてはならない。
虚偽の「映画」を観に行こうと誰もが耳打ちされる。せめて毎夜の「悪夢」から逃れたかったのです。いくつかの穏やかな「海」を回航して、いくつもの見知らぬ「街」を後にする。いくつかの緩やかな「山」を展望して、いくつもの神秘的な「森」を前にする。私は躊躇する。私を叱咤する。思い切って、深く鬱蒼とした「森林」に分け入って行くと、極彩色の「両翅」を光り輝かせる無数の「蝶」が、黄金色の「鱗粉」を撒き散らしながら、飛び交っていたのです。私は、その圧倒的な狂気の「光景」に「我」を忘れたのです。
私は再び「我」に帰る。その「我」は食虫植物の「罠」を想い浮かべる。それでも、森の奥の「洞窟」に逃げ込むしかなかったのだろうか。湿った黴臭い「空気」が、私の「肺胞」の末端まで侵攻してくる。小さな「戦闘」の屍が堆積して、大きな「敗戦」の陰鬱な「気配」に息が詰まる。真っ暗闇の「洞窟」を歩き続けるしかない。すると真実の「音源」が、あの透明の「水源」が落下する「滝」となって、私の耳の奥に聴こえ始めたのです。