知らぬ間に「時」が滑るように過ぎていく。完璧な「瞬間」など、どこにも「存在」しなかったかのように、「無言」で速足で過ぎていく。何かの「追跡」から逃れるようにして、止まることの「虚無」を恐れるようにして、それは過ぎていく。
薄くて消え入りそうな二本の「線」が、私の目の奥の「空間」に現れたのです。その平行に走る白い「線」が、どこかで交わる「予感」が生まれる。しかし、その決定的な「瞬間」は、「知覚」では捉えることはできない。見えないからこそ、見えることが「存在」している。感覚認識の「世界」に影のように寄り添う、もう一つの別の「世界」が在る。
ふと我に返る。遠い過去の「私」に帰る。正確には、あの懐かしさと郷愁感に満たされた「私」、美しい「内海」を眺め遣る「意識」に戻ったのです。すると、夕暮れ前には、真っ赤に燃え滾っていたはずの「太陽」が、つるべを落とすかのように水平線の下へと「姿」を消し去っていたのです。一触即発の「海面」、蒸発沸騰の「海水」を想像する。私は「知識」で、この不可解極まりない「世界」を見ていたのです。
ふと振り返る。孤独な「城郭」の影が伸びている。満天の「星空」の下、不気味な「気配」が立っている。増殖する巨大な「暗闇」、その奥行きのある「空間」が、私を背後から「拉致」しようと待ち構えていたのです。とても深い「夜」、まるで死のような「夜」、その大きく切り裂かれた傷口のような「空間」に魅了されてはいけない。悪霊と精霊が同居する、この野放しになった「自由」が支配する「世界」に踏み入れてはいけない。
私は「石段」を転がり落ちるようにして下りました。青白い「月光」が、私を照射している。夜陰に隠れた「狂人」が、私を見詰めている。視覚を奪われた「私」は、聴覚と嗅覚が異常に研ぎ澄まされたのです。肥大化した恐怖の「感情」は、様々な想像上の「怪物」を創り出し、それらは野に解き放たれたのです。
「感情」が、被害妄想となった「想念」が渦巻いて、この現実の「世界」を席巻している。忌避すべき悪の「領域」が急速に拡大している。叡智と寛容の「精神」が、放縦と陶酔の「感情」に翻弄されて、「世界」は単層構造に集約されようとしている。
不吉で奇怪な「怪物」が跋扈する「森林」が、私の目の奥の「空間」に現われたのです。予想していたことではありながら、私の「精神」は動揺を隠すことができませんでした。見えない「心」の枠組みが、それを通して「外界」を見ていた「窓枠」が、崩壊の「危機」を迎えているのです。ロシアの政治家が、冷徹無比にして頭脳明晰なる実在の「怪物」が、「世界」をチェス盤に見立てて、次の「一手」に思索を巡らしている。そんな「時間」が刻一刻と過ぎ去っている。戦争の「足音」が聞こえてくる。
夢のような「未来」は無い。悪夢のような「現実」が近付いている。白日夢のような「過去」が、「無音」の回転木馬となって、「無人」の観覧車となって、空回りを続けている。私はやっとの思いで、かつての遊園地と呼ばれていた「場所」に辿り着きました。しかし、その「場所」もすでに、「空虚」によって占拠されていたのです。
その「場所」では、春の「足音」も聞こえていました。春の「息吹」が、桜の「蕾」にはち切れんばかりに充満して、季節の「歯車」が着実に回転していることを報せていたのです。そして、私の目の奥の「空間」では、いずれ見事に満開となるであろう「桜花」が、すでに咲き綻び始めていました。「認識」を変えれば「世界」も変えられると思ったのです。
私は「少女」の「痕跡」を、聖なるものと俗なるものとの往還の「足跡」を、探し求めることにしました。子供でもなく大人でもない未成で未性の存在としての「少女」、その相反する両義性によって、時には「境界」を越境することに傷付き、時には「境界」を前にして力尽きる、その未成熟で不安定な「存在」、その「他者」との「再会」を願ったのです。一つひとつの「桜花」が花開く、その決定的な「瞬間」の連続が、春の「時間」を形成していくことを願ったのです。