黒い「色」も丸い「円」も、そして、この突き刺さるように感じる「視線」であっても、それらは、私の「脳内」のスクリーンに映し出された純粋で数学的な一つの「観念」に過ぎないと思われたのです。この宇宙的とも呼べる広大無辺の「空間」に漂う一つの「観念」に過ぎないと思われたのです。なぜならば、それらは、「言葉」の枠内で説明が付き、理解を得ることのできる「世界」に属していたからでした。私に見えていたのは、抽象的な創り事、そう、人間の「観念」だったと言えるのです。然るに、未明の薄明かりの中、恐らく、私は「夢」と「現」の境界線を往復していたのだと推測されるのですが、そんな私が、ブロック塀の折れ曲がった「角地」で、黒くて丸い「能面」を着けた「痩男」と出会いがしらにすれ違って、その衝撃的な「経験」に慌てふためき飛び起きてしまった。以来、その時に突き刺さった彼の鋭い「視線」は、私を「不眠」の世界に引き擦り込んだ。そして、この偶発的であるが故に絶対的な「経験」を、どうしたら「言葉」の枠内に収めることができるのだろうか、と悩み始めた私は、増々「不眠」の泥沼でもがき苦しむことになった。それが、ここ数日の私の体たらくぶりの原因でした。この「精神」の昂ぶりは、アルコールで麻痺させても、「問題」の根本的な解決にはならなかったのです。なぜならば、私が視たのは、単なる黒い「能面」ではなかったからでした。それは、この「世界」に自明の事実として存在する、山を覆う木々や、草むらの臭気や、砂の粗い粒子や、市場に並ぶ魚貝と何ら本質的に変わるものではないのですが、それら、物事の多様性、個別性という仮象の「仮面」が剥げ落ちた後に現れて来る、得体の知れない怪物じみた、黒くて無表情な「能面」そのものだったのです。それは、不条理性に満ちた、「言葉」での説明をいっさい受け付けない「存在」の不気味さでした。しかも、この「世界」は、そのような「存在」で溢れている。そして、その「存在」は必然ではなく、偶然性以外の何ものでもなく、それ故に絶対であり、還元不可能な無償性を唯一の「根拠」にしていたのです。私は、この「根拠」の曖昧性に絶望的な「不安」を懐き、慄き狼狽してしまったという訳だったのです。そんな私が、もう一度、あのブロック塀の「角地」に戻ろうと思い立ったのは、やはり、未明の薄明かりの中、やっとの思いで手に入れた浅い「睡眠」でのことでした。ブロック塀は、軽々と宙に浮いているようだった。その背景には、水色の「空間」が拡がっていた。水気を含んだ「雨雲」が重くゆっくりと沈んで行く。「風雨」が、私の顔面に突き刺さっているように感じる。足元がぐらぐらと揺れている。足場がぼろぼろと崩れている。この再現性の無い一回性の「夢」の中で、誰がいったい、この「舞台」を用意したというのだろうか。誰がいったい、どの「演目」を舞えというのだろうか。はたしてシテは誰で、ワキは誰なのだろうか。「夢」もまた、「言葉」による「意味」の形成を受け付けない、無償性を唯一の「根拠」とする「現象」に過ぎないと思われたのです。私は「角地」に立っていました。眼下には奈落の「谷底」ですらも視えない。ふわふわとした気の定まらない浮揚感、どろどろとした形の定まらない不安感が、私の身の周りに集まって来る。一歩を踏み出すこと、その戦慄の「恐怖」と、その後の恍惚の「快楽」への誘惑を、耳元で囁く誰かの「声」がする。それを踏み留めさせようとする別の「声」とは、私の「精神」なのだろうか、と考える「意識」が表れては消えて行く。「夢」の中においても、自分自身との「関係」は存在していたのです。すると突然、「雨雲」が、奈落の「谷底」から浮かび上がり、あたかも「能舞台」の見立てのようにせり上がって視えたのです。その「舞台」では、白い「能面」を着けた「小面」が、幽玄の美の「世界」を舞っていました。その「世界」では、内的必然性としての自分自身の「死」が謡われ、そのことが、優美に誇らしげに演じられていました。私は、その白い「能面」は生きていると感じたのです。なぜならば、その「能面」には、過去から未来へと無数の観る者の「視線」が突き刺さって行くことにより、観られる者としての「生命」が宿っているように思われたからでした。それは、女性であるのか、男性であるのかを超越した「面相」でした。そして、その「能面」こそが、能楽師をして、「異界」(超越性)からの不可視の来訪者であるシテを演じさせていたのです。そして、ワキこそが、観る者をして、「異界」の存在を知らしめていたのです。「視線」は常に、不可視の超越者を観ていたのです。