季節が廻り廻って何十回目かの「春」を迎えることができた、と私は感じたのです。そして当たり前のように咲いては散っていく「花木」の在り方を観て、今更のように、その律儀さと健気さを強く逞しい、と私は感じたのです。置き去りにされた「荷物」には、決して誰も手を触れようとはしない。それは、いったい何処から届けられ、何処へ届けられるというのだろうか。手を伸ばせば、裸木の梢から吹き出す「若葉」の気配に驚き、思わず手を引いてしまう。枯れた大地の殻を破ろうとする「新芽」の勢いが眩しい。確か、この「感覚」は、あの凍て付いた「冬」の最中においても、私の「内部」にも生き永らえていた。この「言葉」を介しない自然との「約束」が、毎年毎年例外なく履行されていることの紛れも無い「事実」、そのことへの疑いの無い「信頼」こそが、この「世界」の揺るぎ無い「基盤」となっている、と私は思ったのです。彼等の存在が、私の「安眠」を担保していることは明らかでした。今夜の「夢」のトンネルは長く、でも、それは苦しいものではなく、あたかも「樹木」とのゆっくりとした歩みのように感じられました。私はもしかしたら、この美しく奇跡のような生き物の「進化」の一部なのではないか、とさえ想ったのです。それほど、彼等の「存在」が身近に感じられるのも、この「春」のトンネルでの楽しみでもあったのです。足元には、真っ赤な「紅葉」の絨緞が敷き詰められていました。その先の、うっすらと光の射し込む日溜りには、私の大好きな真っ白の「百合」や「春蘭」が、まるで「異界」への道案内人のように咲いていたのです。すると、突然の爽やかな「春風」が吹き、「燭光」を束ねてさらって逃げて行きました。遠くで微かに聴こえる「潮騒」の音には、桜色に染まった「貝殻」の鳴き声が紛れていたのです。「自然」が遠くに在って、近くに感じる。私は何処、私は誰、そんな「一瞬」が届けられたのです。私は、置き去りにされた「荷物」を紐解き、永遠の眠りから覚めた「小鳥」を解放ちました。すると、楠木の「若葉」の燃え立つような豪奢さに囲まれ、それらが放つ黄緑色の「光線」を全身に浴びたもう一人の私が、楠木のトンネルの「出口」に立っているのが視えて来たのです。その「後姿」には、優しい心も卑しい心も写し出されていました。「出口」は小高い山の頂上に位置していて、そこからは「下界」が眺望できました。私は、恐怖で身震いする彼を身近に感じたのです。なぜならば、彼の「視線」を釘付けにしている「光景」とは、刻々と崩壊が進む「都市」であり、どのようなことでも起こり得る今日の「社会」の荒廃の有様に違いなかったからでした。そして、この植物的な進化の「出口」は、これから加速度的に進行する動物的な退化の「入口」でもあることを、「樹木」は静かに諭してくれたのです。と同時に、季節の折々に花を咲かせて、私を大いに楽しませてくれた「花木」が、親しい人達の「笑顔」が忘れられるようにして、「意識」の暗闇に消えて行くのが視えたのです。と同時に、あの鬱蒼とした「楠木」のトンネルも消えて無くなりました。「樹木」は伐採される「運命」を受け入れたのです。そして仮に引き返すことができても、あの「社会」に帰ることはできなかったのです。黄昏時を迎えた「都市」は、まるで荒れ果てた墓地の「夜陰」に呑み込まれて行くように観えました。何発かの連続した「銃声」が「夜空」に響いたのは、そのような危険な「時間」だったのです。私の動物的な「直感」は、誰かが撃たれたことを、私の「記憶」から何人かの「笑顔」が消え去ろうとしていることを報せたのです。しかし、それは「一瞬」の出来事であり、それがいったい誰であるのかが、いっこうに思い出せない。「名」と「顔」が、意識の「暗闇」に沈んで浮かび上がって来ない。仕方なく、その「暗闇」を覗き込んだ私は、そこに、崩壊が進むもう一つの「都市」を視てしまったのです。ビルの谷間を誰かから逃げているのか、それとも誰かを追っているのか、寡黙を装う私の「左手」には、硝煙が漂う「拳銃」が握られていました。私は、思わず心の中で「無罪」を叫んだのです。しかし彼の「横顔」には、忍耐や勤勉からは程遠い残忍で冷酷な「感情」が見て取れたのです。私は焦りました。そしてとにかく、私は何処、今は何時かを確認したかったのです。周りを見回すと、ビルの窓からは大勢の見知らぬ人達の「顔」が視えました。そして、私の左手首から外されて、右手首に付けられた腕時計の「時間」は止まっていたのです。そして、その「時間」は、私が楠木のトンネルの「出口」に立った「瞬間」と一致していたのです。