このまるで迷路のような複雑な階段の構造は、果たして設計者の意図するところなのか、それとも、この歴史と文化の誉れ高き「都市」への新参者の侵入を防ぐ目的があったのか、それは、私たちの知る由も無かったのです。やがて、「屋上」への出口から射し込んで来る、黄昏時の陽光が残る「踊り場」まで階段を上がると、足元には、ひんやりとした冷気を感じさせる「せせらぎ」が、数少ない光の粒子を奪い合うようにして輝きながら流れていたのです。そして、その「水底」には、鮎や手長蝦と想われる輪郭の定かでない形象が、記憶のどこかの忘れかけた「残像」として、ぼんやりと像を結んでいたのです。確か、最初の「川床」では、生茂る樹々の枝葉が「青空」を隠し、「谷間」との間に構成される空間には、木漏れ日が光の破片となって舞い降りていたはずです。「渓流」に耳を側立てると、銀鈴が転がるような涼やかな音色が響いていたのです。記憶の上流からは、厳冬の白雪が降り、色鮮やかな真赤な紅葉が流れて来ていたのです。そして、もう一段と深い「意識」の階層に眠る「川床」には、次のような「情景」が横たわっていました。歌舞伎役者や虚無僧が徘徊する「河原」には、川岸の石垣や堤から張り出された形での「納涼床」が設けられていました。そして、砂洲に置かれた「床机」には、茶屋や芝居小屋から抜け出して来た芸者や女郎で溢れ返っていたのです。一方、この遊行三昧の日々から遠く離れた山奥の寺院においては、厳格なる規律の下に修行三昧に耽る大勢の学僧が古から存在して来たのです。この相矛盾した対比の「情景」こそが、この「都市」の魅力と個性を一層際立たせたものにしているのでした。そして、季節を初夏から初春へと遡ると、爽やかな朝日の光を受けて、川岸に咲乱れる山桜や枝垂桜の放つ香気は、風の意のままに吹かれ消え去っていくのです。美しくも惜しまれながら散っていく「桜花」は、儚く消えやすきものに至上の「美徳」を与えて来た、この国の「文化」の拠りどころを再現して魅せているのです。視ることの至福の眼差しは、私たちの「記憶」の回路を経ながら、もっと深く永遠なるこの国の「原型」を見据えていたのです。そんな私たちの「意識」が「ふっ」と現実に呼び戻されたのは、「記憶」の洪水が堰を切った濁流と化し、これらの「情景」が全て流れ去った後のことでした。縁日が開かれている「河川敷」では、明らかに人種的にはラテン系と想われる若者が、この国際都市の昔からの「住人」であったかのように違和感なく振舞っていたのです。そして、「松明」を妖しげな手付きで操る無国籍の若者が、その「火種」を彼の口から体内の「暗闇」へと葬り去った「瞬間」に、私たちの「意識」は再び階段の「踊り場」へと戻されたのでした。「踊り場」から見下ろせる「中庭」の空間には、浜風に揺れる「夾竹桃」が生茂り、砂浜に打寄せる「白波」はあくまでも穏やかなものでした。白雲たなびく「青空」を背景にして、突然に現れた虹色の「架け橋」は、きっとこの階段の何処かと繋がっているに違いないと想ったのです。そして、この階段を一歩一歩上がっていけば、きっとこの複雑怪奇な「建物」の構造も、いつか明らかになるに違いないと想ったのです。やがて、「屋上」への入口には、夕暮れの終わりを告げる残光を背中に浴びた燕尾服の案内人の姿が見えて来ました。彼らの懇切丁寧なる説明を受けて、一人ひとりと「外界」へと誘導されることになった私たちは、そこで、まるで黒いアンブレラが開かれるように拡がる漆黒の「夜空」に出会ったのです。それは、この「都市」の古からの「歴史」を追体験することだったのです。「夜空」は斯くの如く暗く静謐であり、「自然」は斯くの如く美しく豊穣であったのです。そして、その黒いアンブレラの「内界」には、この「都市」を囲むように連なる五山の山並みのシルエットが浮び上がったのです。次に、「火床」に「暗闇」から移された「火種」が点火され、「外界」と「内界」の接点の外側から、火は視る見る内に燃え上がったのです。そして、アンブレラの内側には、炎上する五つの「絵文字」が煌々と描かれたのです。私たちは、このアンブレラを回転させることにより、右から左への五つの「絵文字」を順番に読み、脳裏にはっきりと焼き付けることが出来ました。そして仮に、「記憶」の大洪水が再び起ったとしても、そして例え、それが予想を超えた濁流であったとしても、「送り火」としての五つの「絵文字」は、私たちの「心」に燈った「松明」として、未来永劫に消え去ることはないと思ったのです。