水中をエレベーターが上昇しているのか、それとも「私」が下降しているのか、それを確かめたいという「欲望」が浮んでは沈む、緩んでは結ぶ。薄く「意識」が戻って、「対象」を捉え直したのだろうか、再び、エレベーターの「内部」が見えて来たのです。
ガラスの「内側」を視て見よう。目を凝らすと、赤く膨潤とした五本の「指先」がへばり付いて視える。そこは、拡大化した「網膜部」なのか、滲出化した「黄斑部」なのか。赤い「指紋」が地下鉄の「路線図」のように張り巡らされている。目を病んだ「私」は、まるで「溺死者」のようにして、青白く「恍惚」と浮遊している。
ガラスの「外側」を視て見よう。目が慣れると、もう一人の「私」が見えて来たのです。半透明の「羊水」が「外部」を満たしている。無邪気な「赤児」に見える「私」が漂っている。彼の「二の腕」にはピカソの「刺青」が彫られている。キュビズムではなく、ニヒリズム、シュルレアリスム、それは「青の時代」に違いなかった。
視て見ぬ振りなどできない。その「感情」は、私の「夢」にも紛れ込んでいたのだろう。盲人、娼婦、乞食、それらが「花々」と混ざり合って見える。それらは、甘酸っぱい「青林檎」のように頑なではないが、憐みの「感情」に「私」は溺れかけていたのです。
私は視た、数え切れない「夢」を見た。煌めくような「銀雪」が降り、蒼ざめた「初夜」はしっとりと紅色に深ける。猛り狂った「蒼天」を呑み尽くすかの、紫色のカラスの「大群」が波立ち、怒涛の「月夜」が拡がる。敬虔なる「巡礼者」は跪いて、散りばめられた無数の「星々」を仰ぎ見て、嘆き悲しむ。旋回する数羽のカラス、やがて痛々しい「真夜」は白々と明けるに違いなかった。
真っ赤な「陽光」のひらめき、真っ黒な「竜巻」のひとまき、真っ白な「稲妻」のひととき、それらが折り重なるようにして、「記憶」のページは閉じられるのです。それらは、「脳内」で想い描かれた「言葉」となる。私の「視覚」と「神話」のイメージとなる。
遅かれ早かれ、ガラスの「境界」は取り払われるのだろう。私は「記憶」のエレベーターとなって下降するのだろう。それは、発酵する「記憶」の「湖沼」へと、遠い「過去」の「私」へとゆっくりと沈下して行こうとしている。
そのような「日々」、私の「夢」は小さき「菫」のようにして、誰ひとり気付かれることなく、慎ましく咲こうとしていた。そのような「日々」、私の「夢」は未だに「菫」のままにして、我ひとり恥じらいながら、細々と語ろうとしていた。私達の歌とダンスは永遠に終わることなく、一言も発することなく、何事も起こることなく、移り行く四季の「感触」と伴に生きていたのかも知れない。
「意識」が薄れて、「記憶」の底へと沈潜するに従って、一隻の「船」が視えて来たのです。海の「歌」が聴こえて来たのです。それは、神秘的でもあり、魅惑的でもあった。「漂流」は終わりを告げ、「港」への回帰が歌われているのかも知れない。「船」の中には、もう一台のエレベーターが眠っている。「光」が降り注ぐ「予感」が聞こえてくる。