夢博士の独白



盲目の扉又は聖書の真実、地球に堕ちたロックスター、超越的存在と英訳された私の死

 私の「左眼」に薄くて透明なフィルムが貼られる。私の「眼球」を正しく切り開くための「被膜」が張られる。それは、事前ではあるが、一方的に告げられた「手順」でした。拒むことのできない小さな「死」への「入口」が視えてくる。引き返すことのできない「扉」の向こうには、「聖書」を読むまでもない「真実」が待ち構えている「予感」がしたのです。
 デヴィッドの「左眼」は純血の緑色だったのだろうか、それとも灰色の「銀狼」との混血だったのだろうか、何れにしても正常な「右眼」とのバランスを失っていたのは確かでした。「都市」を彷徨う老いた「銀狼」は、初めから「死」を見詰めていたのです。視えない盲目の「扉」が迫ってくる。「手品師」の滑るような「指先」が、鋭利な「刃物」を操っている。その金属の冷たく人工的な「閃光」が、私の「記憶」を呼び覚ましたのです。
 デヴィッドは地球人であるボウイを殺すことによって、異星人であるジギーに生まれ変わった。「観者」からしか視えない「偽者」のジギーを演じることによって、「本者」のジギーに成り切ることができた。そして、多くのロックスターの忘却という「死」を目撃したデヴィッドは、今度はジギーを殺すことによって、まるでイエスのように「他者」の「記憶」に生きることを選んだに違いない。
 ジギーとしての最後のコンサートでも、やはりブレルの「私の死」はインターバルの前に歌われていた。私の「記憶」の中でも、多くの「認識」の「紐」が次々と繋がって行ったのです。この「世界」は「認識」の数だけ「解釈」が成り立つのかもしれない。確か、スコットの最初のアルバムでも、「私の死」はA面の最後に歌われていた。二人の英訳された「歌詞」には違いはあるが、「死」は仏語本来の抽象名詞や女性名詞ではなくて、擬人化された男性名詞として扱われていた。私の「記憶」が浮かんで来たのです。「私の死」が、私の目の奥で歩き始めたのです。
 真新しい「墓標」が視えて来ました。その眩しさ、その厳かさに老い衰えた「放蕩者」は、思わず「顔色」を曇らせたのです。私は「口笛」を吹くが、どんなに強がっても、過ぎ去った「時間」には届かない。黒い砂漠の「流砂」には聞こえない。その先の「死」が、真夜中に現れる「魔女」のように待っているのです。
 朽果てた「墓石」が視えて来ました。その周りには、漆黒の「影」が蹲っていたのです。それらの「影」が、申し合わせたようにして散らばっていく。献花された「花束」、咲き乱れた「花園」、生い茂った「草花」、それらの至るところに隠れて、「死」は忍び寄っているのです。あの「手品師」の大きく開いた袖口から、「白兎」と「黒犬」が走り去るのが視えました。盲目の「扉」は予告なしに開かれるのです。
 ブレルの「歌詞」が繰り返して続く。例え「扉」の向こうに何が待ち受けていようが、敢えてすることは何もない。それが「天使」であろうが「悪魔」であろうが、私の知ったことではない。確かなのは、その「扉」の前には、いつも「貴女」がいて、その冷たい「指先」が、いつか私の「両眼」を閉じることなのです。私の目の奥では、忘却の「帆船」が白い「航跡」を描いている。それは、不可逆的な「過去」を引き摺りながら曳航している。
 スコットは、アイドルと見做されることを「拒絶」することで、自らの「人格」を創り上げた。一方、デヴィッドは、自らのイメージを創り変えることで、ロックスターとしての「延命」を計り、その商業主義と芸術性の折り合いを付けることに成功した。彼等は、自らの絶頂期に自らを葬り去ることによって、いかにして「死」を迎え入れるのか、いかにして「生」を終わらせるのかを、常に「意識」していたのです。
 いくつかの「墓地」を通り過ぎて行く。すると、遥か「彼方」に「高山」が観えて来たのです。超越的な「存在」が、この世からの「孤高」が見えて来たのです。デヴィッドの「訃報」が届きました。私は、あの「頂上」に在って、この世を見下ろすことの「孤独」と「恐怖」を想ったのです。そして、遥か「彼方」に超越的な「存在」が視えたからこそ、救われたことを思ったのです。
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# by artbears | 2016-03-29 20:55 | 連白

赤く起立する教会と旋回する光輪、巨大な氷山と夢想の大海、病室から視えた六月の月

 私の「記憶」が正しければ、開け放たれた「窓」は二つであって、そこから観える「空」は一つであって、それは、私の「心」を映し出したものでした。解き放たれた「白鳩」は十二羽であって、それらは、「対岸」に視える真っ赤な「尖塔」の周りを、真っ白な「光輪」となって旋回し始めるのです。やがて、左の「窓」は閉じられても、慈愛に満ちた「春光」は、右の「窓」から優しく射し込んでいたのです。
 私の「記憶」が正しければ、その「光景」は「夢」の中での出来事でした。それ故、それが「夢想」であったとの「判断」も容易に下せたのです。儚く移ろいやすい「記憶」は、巨大な「氷山」の一角となって、「夢」の「大海」を漂流している。その「大海」から突き出た小さな小さな「尖塔」に辛うじて生息している。
 「対岸」は「島影」よりは明瞭に見えたのですが、ジッと目を凝らして視ると、水平線が「波浪」のように上下に揺れていたのです。私は平衡感覚を失ったのだろうか。強い船酔いのような「不安」が増大する。「眼球」の裏側に注射針が撃たれる。楽観的な「夢想」が悲観的な「幻想」へと脱皮しようとしている。この「幻想」が、赤く聳え立つ「尖塔」への「幻視」を欲したに違いない。ところが、その垂直に起立していた「教会」すらも、大きく左右に揺らぎ始めたのです。
 このすっかり騙されてしまう「夢」の現実感は、何らかの「意図」があって現われてくるのだろうか。その「背景」には、どれほどの「意味」が隠されているのだろうか。それは、ポロックの「絵画」のようには「中心」を喪失していない。実は「背景」は見えていない。「意図」と「意味」は、その「中心」を視ることに在るのだろうか。そもそも、このリアルな「感覚」とは何なのだろうか。ポロックが無意識のうちに提起した「絵画」の「問題」は、「夢」の中にも存在していたのです。
 私の「夢」の続きは「対岸」から始まりました。人影の消え失せた「街角」を曲がると、「濃霧」は一層深まって、その「悪霊」のような「冷気」を吸い込んだ「私」は、目の前の茫洋とした「教会」が、あの巨大な「氷山」のように見えることに立ち竦んだのです。とにかく、この「幻想」の「幻視」への展開を止めなくてはいけない。ロバートの繊細で消え入りそうになる、それでいて、温かく誠実な人柄が偲ばれる「歌声」が聴こえて来たのは、まさに、その時の事でした。
 聳え立つ赤い「教会」、その「尖塔」は「濃霧」によって隠されている。その上の「雲海」が「濃霧」を圧し下げている。抑圧的な「教会」、その重厚な「扉」を開けて駆け込むと、地下への「階段」が「視界」に入ったのです。何の迷いもなく、「階段」を駆け下りた「私」は、地下室の木製の「扉」を開きました。そこには、車椅子のロバートが、愛用のピアノを前にして静かに座っていたのです。
 「階段」から転落して失った「自由」、その「制約」を受け入れたからこそ創れた「音楽」、そして、虚飾と詭弁を排したシンプルで力強い「言動」、それらは、彼の一貫した「音楽」の「社会」との関わりを意識した「思考」から導き出されている。それは、「社会」の「不実」に対する告発と変革を希求する、ロックの原初的な「精神」に根差したものでした。だからこそ、彼の「音楽」は中心性を失うことなく、リアリティーを持続している。「自由」の貴重さと困難さと危うさが、その「音楽」から聞えてくる。強靭で柔軟なカンタベリーの「大木」は、豊かな「果実」を実らせたのです。
 私の「左眼」の「手術」が間近に迫っていることが告げられました。車椅子に座っている「私」に気付く、奥の奥に在る「病室」に移動する。後方の「人影」が前方の「扉」を次々に開けて進む。左右の氷のような青白い「手」、その「冷気」が「私」を運ぶ。
 私の「夢想」が正しければ、「病室」には一つの「窓」がありました。そこから観える「夜空」には、美しい「六月の月」が視えたのです。何度も何度も視て、何度も何度も聴いた「記憶」が、蘇って来たのです。若々しいロバートの「歌声」が、リアルな「月夜」に響き渡ったのです。一羽の「白鳩」が舞い戻ったことが告げられたのです。
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# by artbears | 2016-02-29 20:38 | 連白

水面に映る魅惑と畏怖の感情、漆黒の暗闇からの脱出、蝋燭の炎と空に開け放たれた窓

 私の「意識」は「森林」から抜け出して、「坂道」を下り、でも、あの美しく澄んだ「湖面」のような「瞳」が忘れられなくて、何度も何度も振り返らざるを得なかったのです。それは、どことなく冷ややかで、近寄りがたく、遠くに感じるものでもありました。その美しさへの「魅惑」と厳しさへの「畏怖」、それらの相反する「感情」の「桎梏」から抜け出そうとしていたのです。
 あの時、「桎梏」は漆黒の「暗闇」となって、その「魔手」が足元に忍び寄っていた。私の「意識」は夢遊病者となって、鬱蒼とした「森林」の中を彷徨っていた。その「足跡」は消されているが、その「記憶」は身体に残されている。
 その時、木漏れ日が眩しく射して、私は薄明の「世界」に目覚めたのです。強烈な渇望感に立ち止まったのです。厳しく凍った「湖面」が観えて来ました。「水面」には無表情の「能面」が視えて来ました。存在すると思って凝視する、しかし、そこには何も無い、無明の「世界」が映っていたのです。
 この夢幻の「世界」から、何とかして抜け出さなければならない。その想いが深まれば深まるにつれて、漆黒の「暗闇」は底無しに思えたのです。ケビンの「音楽」との出会いは、そのような出口無しの「暗闇」での出来事だったのです。
 曖昧模糊な「地平」と広大無辺な「荒野」が拡がっていました。マレーシアの心地良い「微風」が吹き抜けていく。マジョルカ島の風光明媚な「島影」が観えてくる。玩具の「悦楽」とは何か、月に撃つ「弓矢」とは何か、バナナへの「偏愛」とは何か、そのどこかユーモラスで諧謔性に富み、茶目っ気たっぷりのボヘミアンが創り出す「音楽」は、荒れ果てた「原野」を実り豊かな「田園」に変えて魅せたのです。暗くて陰鬱な「世界」は、青く晴れた「空」に開かれて、いきいきと「生気」を取り戻していったのです。
 こんもりとしたなだらかな「丘」が視えて来ました。その「丘」で、一個の「小包」が手渡されることになっていた、と囁く低音の「声」が、「耳」の奥から聞えて来たのです。「小包」は時限爆弾のように開かれて、その中には、おとぎの国の小さな「城」が丁寧に包まれていました。それは、「夢」の中でしか起り得ない、摩訶不思議な「体験」のように思われたのです。そして驚くことには、二頭の雄雌の「鹿」が、私の左右に寄り添うようにして、「小包」の内部を興味深く覗き込んでいたのです。
 「城」が巨大化されたのか、「私」が相対化されたのか、それは知るすべがない。そうこうしていると、「城」への「入口」である、跳ね橋がゆっくりと下ろされたのです。その一部始終を、我々は、息を呑んで見守っていました。我々が、誰かに招き入れられていることは確かだったのです。あの低く太い「声」が再び、「水」の底から聞えて来たのです。
 螺旋状の「階段」は、まるで「天」に駆け登る「竜」となって、回転しながら「尖塔」を目指していました。蝋燭の「炎」が「階段」を照らし出している。「壁」には、「夜」の舞踏家の「影」が踊っている。夢遊病者の「軍隊」の正確無比な「靴音」が聞えてくる。やがて、独りぼっちの「私」に気付く、そして、漆黒の「暗闇」に取り囲まれていることを知る。「孤独」が「私」に追い着いて、追い越そうとしていたのです。
 「記憶」の中にある木製の「扉」は開いて、私を待っていました。私の「入室」が確かめられるや否や、ハンドルの無い「扉」は閉じられたのです。後方を振り返って、再び前方を振り向くと、「窓」は開け放たれていて、白いレースのカーテンが「風」に靡いていたのです。窓際には黒い「椅子」が在って、その上に置かれた蝋燭の「炎」が揺れていたのです。
 黒い「影」は白い「鳥」となって、「窓」から飛び立った、そのような「形跡」が残されていました。ベッドの上には、「少女」が包まっていた真新しいシーツが敷かれていて、そこには、彼女の「体温」が感じられたのです。私は、彼女が、あの漆黒の「暗闇」の「魔手」から逃れられたことを願わずにはいられなかったのです。
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# by artbears | 2016-01-30 18:35 | 連白

風に吹かれる言葉と存在の偶然性、半島又は島影と津波の記憶、湖水に群れを成す雌鹿

 白い「芥子」の「花弁」が風に吹かれていたのです。「目」の奥で白く散り始めたのです。それは、「花冠」を構成している「花葉」と呼ぶべきなのか、「萼片」と呼ぶべきなのか、それらの「言葉」が「花弁」となって、風に吹かれていたのです。
 私に「言葉」が無ければ、「言葉」とイメージの「符合」が無ければ、その「存在」の曖昧さは捉えどころがない。永遠の「彼方」に取り残されている。それは、「夢」の中をヒラヒラと飛び交う、名前も呼名も知らない、白い紙切れのような「蝶」と何ら変わらなかったのです。「存在」は、何時も掴み取れない、何時も擦り抜けている。「夢想」のようにフワフワと浮かんでいて、「真実」の重みから「自由」でいる。
 鬱を患った「森林」、疲れ果てた「坂道」、熱を帯びた「悪夢」、それらを通過する「儀式」が終わりを告げるのは、この「半島」の「頂上」での出来事のはずでした。そのことが、「友人」からのメールには仄めかされていたのです。ところが、いくら周りを見回しても、「友人」の「面影」は見当たらない。白々しい「空虚」だけが待っていたのです。
 そもそも「友人」とは誰だったのだろうか。その「顔」がどうしても想い浮かばない。それは、「自我」を確立するための「他者」だったのだろうか。私は、その「顔」を一心に想い描きました。すると、私の「心」が二つに分かれて、その「割目」からのっぺらぼうの白い「顔」が覗いたのです。とどのつまりは何時まで経っても、私は真の「自己」には出会えない、出会い損なっていたのです。
 「牡鹿」は群れを成して「半島」を目指していた。その「幻影」が再び蘇って来たのです。「傍観」せざるを得なかった私は、陸地を迂回する「選択」をして、この「半島」に辿り着いたに違いない。その「記憶」が再び甦って来たのです。「幻影」と「記憶」が合成されて、「島影」が再び「目」の奥に現われようとしていたのです。
 「島影」を視てはならない。その「幻影」が、あの大津波の「記憶」に呑み込まれなくなるには、どれだけの「時間」が経てばいいのだろうか。どれほどの「道程」を歩めばいいのだろうか。ディランの「歌詞」が聞えてきたのです。答えは「風」に吹かれている。答えは「風」の中に舞っている。「事物」の本質は偶然性に在る。彼の「言葉」は、まるで「存在」の「定義」と同じように、あまりにも曖昧で捉えどころがなかったのです。
 「風」が再び吹き、何かが壊れてしまったことを告げていました。一枚の白い紙切れがクルクルと舞い降りてくる。何かが書かれているようだが、誰も拾って読もうとはしない。そして、自ら「風」に吹かれようとしている。茫然自失としていた「私」は、それに気付いて、それを掴み取ろうとしたのです。その「瞬間」、一枚の白い紙切れは、まるで一匹の「蝶」のようにして舞い上がる。居心地の悪い「意識」だけが取り残される。
 気が付くと、私の「意識」は転がる「小石」の「内側」に閉じ込められていたのです。「小石」は「坂道」を転がり落ちる。「外側」の「世界」が丸く観える。魚眼レンズから覗いたように円く視える。クルクルと「回転」のスピードが速まる。やがて、円形の外枠の「内側」に黒い「眼球」が並び始めたのです。透き通った「泉」のように純粋で、穢れを知らない「瞳」が回り始めたのです。
  「雌鹿」は群れを成して「湖面」を取り囲んでいた。「水」を飲みながら「風」を読んでいたに違いない。波ひとつ起たない「湖面」は美しく打ち震えていたに違いない。私の「意識」は、その「静寂」を打ち破るように浮上したのかもしれない。その「水音」に「雌鹿」の「耳」がいっせいに反応したのです。聞き「耳」が南の「方角」に向けられたのです。
 何頭かの「牡鹿」が「海峡」を渡り終えた報せが届いたのかもしれない。彼女たちの「耳」は、「世界」の悲痛で悲惨な「物音」に向けられていたのです。多くの「難民」が「国境」を越えようとしている。北イタリアの都市国家の「光景」が、揺れ瞬く「瞳」の奥の奥に映し出されていたのです。
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# by artbears | 2015-12-31 17:08 | 連白

北上する牡鹿と落下する星座、脈絡を欠いた夢想又は悪夢、象徴としての芥子と十字架

 それは、甘い「夢」のように頼りなく、白い「雲」のように気紛れに、私の目の奥に現われたのです。それは、液晶の薄っぺらな「表面」とは明らかに異なる、古いブラウン管式のTVモニターの奥に在る「暗闇」に浮かんでいたのです。アンディの「冷笑」が視えては隠れる。ヴェルヴェッツの「音楽」が聴えては消える。その一見秘かで穏やかにさえ見える「光景」が急変することは、今さら驚くような「事態」では無かったのです。
 遥か彼方に「島影」が視える。そのことは、どちらかが「半島」であることを示唆してはいるが、そのことを確かめる「手段」は与えられていない。私は、何時ものようなゲームが、何時ものようなルールで始まったことを知らされたのです。
 「白雲」は千切れて、「陽光」ですら迷走している。やがて「夜」を迎えると、端然と輝く「星座」が崩れて、粉々となった「流星」が地上を目指して突入してくる、それは、目に見えていました。イメージがかくの如くして「出現」するのは、先刻承知のはずでした。「空間」は、まるで書庫に眠る「古書」のように厚みを増し、「時間」は、まるで脱兎の「心臓」のように、その「鼓動」を高めるのです。絵空事とは呼べない「事態」が迫っている、そのことが、「夢」の中で起ころうとしていたのです。
 しばらく音信の途絶えていた「友人」から、北の「方角」で待つというメールが届いたのは、確か数日前のことでした。取るものも取り敢えず、慌てて旅支度を終えた私は、何か途轍もなく大きな忘れ物をしているようで、そのことが「重荷」となって、なかなか重い腰が上がらなかったのです。それが、無為に過ごした罪悪感からきた「感情」であったことを知らされたのは、確か数日後のことでした。
 柔らかい「絹糸」で編んだカーテンを引くと、硬いガラス製の「窓」の向こうでは、相変わらずの不穏な「気象」が続いていました。何もかもが、有無を言わさずに飛ばされている。「木立」がザワザワと波打ち、「電線」がブルブルと震えている。それは、古い白黒の「無声映画」がカラカラと早回しにされているようであり、私の失われた「過去」のバラバラに切り取られた「証拠写真」が飛び散っているようにも見えたのです。
 私には、腰が軽くなるまでの「時間」は与えられていない。その「自覚」に、私の「意識」がようやく追い着いたのは、北上する鹿の「大群」が「半島」を目指して、次々と「海面」へと投身する「光景」が目に飛び込んできたからでした。このままでは、「約束」した「時刻」に間に合わない。そもそも、私は「約束」などしてはいないが、「反古」にしたという「記憶」は残っている。落下する「流星」と投身する「牡鹿」のイメージには、私を急がせる「理由」が隠されているに違いないと思ったのです。
 「海中」から見上げている黒い塊のような「影」に気付いたのは、「夢」が別の「展開」を欲望したからでした。それは、私の「悪意」なのだろうか、それとも黒いだけの「岩肌」なのだろうか、何れにしても、その「存在」が極めて不気味に思われたのです。案の定、「海面」近くでは、無数の四本の「手足」がもがいている。無数の「苦悩」が空回りをしている。無数の「労力」が水の泡となって消えている。黒い「眼球」がゴロンと動いて、私は狙われているのか、救いを求めているのか、「夢」は一向に語ろうとはしない。
 私はきっと、悪質な「風邪」に体力を奪われてしまったのです。そして、いくつかの「悪夢」に魘されながらも、この「海面」を見下ろせる「半島」に辿り着いたのだと想ったのです。「頂上」では、ヒマラヤに咲く白い「芥子」が「種子」を膨らませていました。白い「粘液」が滴り落ちて、その真っ白に染まった「絨毯」の上には、「太陽」の光線が束ねた「金髪」と張子の「赤牛」が納まった「竹籠」が置いて在ったのです。
 私の「視線」は遠方の「島影」を探し求めました。その「幻影」に向かって、鹿の「大群」が泳いでいたのです。やがて「夜」を迎えると、光り輝く「流星」が「島影」に代わるに違いない。白い十字架のような「灯台」が視えてきました。その「希望」に向かって、「小舟」が漂流していたのです。白人の「男」は明らかに被弾していて、黒人の「女」は強く「幼子」を抱きしめていたのです。
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# by artbears | 2015-11-30 20:40 | 連白

イメージの出現と複製、現代の記号性と芸術の無化、ニヒリズムと死の影を帯びた概念

 私の「過去」は一体全体どこへ行ってしまったのだろう。それは、「肉体」のどこかに固定されてはいない。されど、「精神」とは縁がない。それ故、「記憶」は消えて行く。「音楽」のように流れてはいるが、「映画」のように途切れて停まることもある。全体が観えることはないが、一体が視えたという確たる「幻想」を抱くこともある。
 彼女は無造作に片手で「黒髪」をかき上げたのです。それが、「敵意」からなのか、「好意」からなのかは、私の「記憶」には残されていない。それが、「映画」の一場面での出来事だったという「記憶」だけが残されている。彼女が「黒人」であり、涙に溢れた「眼球」が強く何かを訴えていて、それに、私の「感情」が刹那に反応した。恐らく彼女自身も内心では驚いている「表情」、それが、「演技」であることは見え透いていたのです。
 イメージは一体全体どこから生まれて来るのだろう。それは、「記憶」のどこかで流動している。されど、「知覚」の網ではすくえない。それ故、「観察」しても捉えられない。「写真」のようにどこかの「場所」での出来事ではあるが、「絵画」のように何かの「形態」を描いたアリバイでもある。それは、常に「過去」に生きていて、時に「未来」を向いている。
 イメージは何かを指向している。何かを示唆して暗示している。その「何か」とは一体全体どこに在るのだろう。私の「外側」に在る何かが、私の「内側」に在る何かと感応していることは間違いない。五感で捉えた「情報」を「記憶」のデータファイルで参照する。物質と行為によって初めて「出現」するイメージ、それまでは、永遠の「記憶」の中に眠っている。
  「記憶」の深い森に分け入って観よう。未知なる「道」に誘われるようにして、私は「意識」を見失って行ったのです。「風」は、そのことを報せてはくれないが、その「音」は知らせることを怠らなかった。「草木」が靡き、「落葉」が舞い、「小鳥」は寄り添って「体温」を温め合っている。「風」は尚も吹き、何かが壊れつつあることを告げていたのです。イメージの「扉」が開かれるようにして、「森」の奥の奥の「湖面」が光り輝いていたのです。
 何かしらの漠然とした「期待」が無かったと言えば、嘘になる。ところが「期待」は、裏切られることを秘かに欲してもいたのです。歩いて行くしかない、と思った瞬間、遠くに在ったはずの「湖面」は、私の「心」の中で宙づりになっている。今ここに在る、という「実感」、これすらも、「他者」による「体験」のイメージではないのか、単なる「概念」の「複製」ではないのか、という「疑惑」が浮かび上がったのです。
 例え、それが借り物のイメージでもいい、と思った私は、蒼い「森」の中でひっそりと息を潜める「湖面」を覗き込みました。「風」の気配が再び通り過ぎて、「気象」の変化が告げられる。「鏡面」は揺れ瞬いている。あの「映画」の中のいくつかの「光景」が見え隠れしている。それらは、その「真偽」はともかくとして、私の「現在」を形成する「断片」となって映し出されていたのです。
 無数の「画像」が無数の「弾丸」となって、私の「記憶」の中を飛び交っている。弾痕と血痕の「痕跡」が生々しい。その「戦場」は、世界のどこかの「現実」であるとの「仮説」も成り立つ。白人である「男」と黒人である「女」が、命懸けで一人の「赤子」を守ろうとしていたのです。幼い命に「未来」を託そうとしていたのです。
 重い、あまりにも重篤なメッセージに疲弊した私は、無作為にテレビのチャンネルを切り替えました。間髪を入れずに、別の「映像」が現われたのです。その「画面」には、快感原則の「文化」が、大量生産を象徴する「記号」と大量消費を刺激するイメージが氾濫していたのです。デザインとしての「表現」が横溢していたのです。
 軽い、あまりにも軽薄なメッセージに辟易した私は、無造作にテレビの「電源」を落としました。すると、その「画面」には、全てが無になるニヒリズムの「闇」が、あのウォーホルの冷たく鋭利で死の影を帯びた美の「概念」が、いつまでも映っていたのです。
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# by artbears | 2015-10-31 18:18 | 連白

空間の概念性と概念の抽象性、表層の記号と深層の真実、崩壊する都市又は精神の危機

 二つの「川」が合流する。京都のどこかで、一つの「川」を形成している。その「場所」が思い出せない。その「地図」が想い描けない。それは、「記憶」のどこかに閉じ込められている。それは、重い「空気」の匂いのように漂っている。Y字型の「記号」が、私の目の奥で浮かび上がってきたのです。
 一つの「川」が逆流する。脳裏のどこかで、二つの「川」に分岐している。次々と枝分かれを繰り返す。渓流は細流となる。まるで毛細血管のように「記憶」の周りに張り巡らされていく。「時間」の連続性が断たれたのです。「空間」の概念性が生まれたのです。失われた京都の「記憶」が集まって、象徴的な「概念」となって表れてきたのです。
 夜の京都の「情景」を想い描く。しかし、記号化された「情報」と身体化された「概念」に囚われてはいけない。なぜならば、抽象的な「記号」は具体的な「事物」の表層を滑るだけで、その「事物」との真の出会いを深層に隠している。その「事物」との他の出会いを背景に退かせている。深い「夜陰」に紛れ込まなくてはいけない。暗い「迷路」に忍び込まなければいけない。
 夜の古都の「情景」を想い歩く。すると「夜陰」のなかに、妖気漂う「枝垂桜」が咲いていたのです。「迷路」のなかに、幽気漂う「五重塔」が聳え立っていたのです。無音の「足跡」と無言の「会話」が聞える。二つの「人影」が先導して「石段」を降りていたのです。一つの「満月」が背後を照らしていたのです。それらは、自らを名乗らない。それらは、知覚と思考を誘導する「記号」のようには、自らを明かさない。
 長い溜息のような「夜陰」と重い眩暈のような「迷路」は続きました。突然の脈略も無く、何かの「影」が駆け出したのです。何かの「影」が駆け込んだのです。「月光」が静かに降り注ぐなかを、一匹の「黒猫」が駆け抜けたのです。
 胸を突く濃密なる「感情」が、その「黒猫」を追い掛けました。親密であるが隔絶した「存在」でもある「黒猫」、その「目」は「満月」のように見開き、私の「視線」を跳ね返している。そして、私の「内面」を「鏡」のように映し出している。視ることは、深く考えることでも在ったのです。
 左岸から右岸なのか、左京から右京なのか、私自身の「座標軸」が定まらないままに、私は、移動する巨大な「影」の群れに呑み込まれてしまったようでした。カラフルな「色彩」が「視覚」を刺激する。ノイジーな「音響」が「聴覚」を刺激する。それが、果たして「雷光」なのか、「電光」なのかの判断もできない。「黒猫」を見失う。「月光」を見失う。あの「夜陰」と「迷路」は、人工的な光源によって「居場所」を奪われていたのです。私は、様々な「記号」で溢れ返る「都市」の住民となっていたのです。
 真夜中の「信号」が「黄」から「赤」に変わろうとしていた。その「意味」するところが瞬時に理解される。私の知覚と思考は決定されている。私の掛け替えのない「自由」は、「都市」の「機能」に委ねられていたのです。モンドリアンが想い描いた「秩序」と「構造」が、「自然」から遠く離れた「都市」の抽象的で概念的な「世界」が、私の目の奥で浮かび上がってきたのです。
 京都からロンドンなのか、東洋から西洋なのか、いずれにしても、それは、昼とも夜とも言えない、現代とも近代とも呼べない「空間」のようでした。「人影」が消えた「街角」を曲がる度に「濃霧」は一層深まり、「都市」の退廃と混沌は深まっていたのです。
 その「場所」は、「個」の自己表現と自己解放への「欲望」を、まるで癌細胞のように吸収しながら肥大化している。ジャズもロックも、その社会システムに完全に呑み込まれている。エントロピーは着実に低減している。
 遥か彼方に「老木」の風雪に耐えながら佇む「姿」が視えてきたのです。ハミルの孤独で悲痛な「歌声」が聞えてきたのです。「感情」は激流となって自己表出されている。しかし、「事物」とそれに向き合う「精神」は決して流されてはいない。聴くことは、深く考えることでも在ったのです。
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# by artbears | 2015-09-30 21:13 | 連白

黒くて深い闇又は夢、自由を求める精神とジャズの変革、秋空又は澄み渡る意志の光景

 黒くて深い「闇」なのか、それとも「夢」への類推性を生む「空間」なのか、とにかく、私は「頭」をもたげることにしたのです。すると、独りっきりの「私」が向こうに視えてくる。私の身体システムが「情報」を統合する。私の情報システムが「意識」を起動する。私は「私」に追い着いたのです。
 暗くて浅い「夢」なのか、それとも「闇」との類似性が生む「空間」なのか、薄暗がりのなかを消えていく誰かの「後姿」が視えたのです。私の「意識」が追い掛ける。その「対象」を掴もうとする。それはすり抜ける。それは消えていく。
 周りを見渡すと、白くて濃い「霧」が立ち込めていました。まるでミルクのような「気体」が「泉水」となって湧いていたのです。私は「濃霧」のなかに迷い込んでしまったのです。私自身を見失ってしまったのです。
 隣りを見遣ると、未知なる永遠の「他者」である「私」が寄り添っていました。私という自己肯定性と「私」という自己否認性が、私という「場所」のなかで出会っていたのです。私という自己限定性の「世界」を創っていたのです。
 一つの「属性」に閉じ籠もることはない。未知なる永遠の「他者」の自己否定性を受け入れなければいけない。鮮烈なる永遠の「他者」に自己限定性を明け渡さなければいけない。そこには、自己解体による可能性が存在する。そこには、自己解放による「自由」の領域が存在する。ポスト・フリーの「地平」が見えたと想ったのです。
 私達は「視線」を再び足元に向けました。「霧」が「闇」と溶け合って、重層的な「空間」が形成されている。それは、ジャズの生きた「記憶」の堆積のように見えたのです。その「歴史」の断層から、コルトレーンの「苦悩」が亡霊のようにして現れたのです。
 白くて権威主義的な「部屋」がいくつも並んでいる。黒くて抑圧主義的な「扉」は開かれることを「拒否」している。白い「部屋」の中でしか、黒い「音楽」は演じられることを許されない。音楽形式と語法の「制約」が負わされて、二律背反と自己分裂の「情況」が続く。黒人の自己同一性が「危機」に面していたのです。その表現の「自由」の欠如、そのジャズの根元的な「矛盾」に対するラディカルな異議申し立てがなされたのです。
 白い「部屋」は黒い「精神」によって、次々と破壊されました。西欧的な「制約」は再定義されて、新たな「変革」への道程が示されたのです。無邪気で無防備なアルバートの「自由」を希求する「精神」は、ジョンによって運動体として組織され、集合体としての「精神」に継承されたのです。
 目的を喪失したフリージャズは、もはや「自由」とは呼べない。破壊することで、その目的は遂げられている。後は、遥か「彼方」の「自由」へと漂流を余儀なくされる「運命」が待っている。紅い「血」の流れるセシルは、ユニットとしての「自由」への「意志」を組織化することに挑み、白い「肌」をしたスティーブは、個としての「自由」に「制約」を課することを選んだのです。
 アルバートは北欧の透き通るような「青空」を見上げていた。それは、彼にとっての「自由」の「象徴」のように見えたに違いない。やがて、絶望と失意のうちに米国に帰国する。突然のジョンの「死」、それを追うようにして自らの「死」を選ぶ。黒い「謎」が独楽となって回転している。それが、暗い「闇」の中に消えていく。しかし、彼等の遺したフリージャズの「精神」は欧州に根付くこととなったのです。
 私は京都の厳しい冬を前にした「秋空」を見上げていた。それは、澄み渡った「意志」の「光景」として、何処までも突き抜けていた。京都の「空間」には「自由」が存在する。その「空間」で、セシルは「自由」で在るための「闘争」を演じた。スティーブは「自由」で在ることの「危機」を忘れることはなかった。未明なる永遠の「冬」が続く。「自由」は、「春」の訪れを頑なに拒み、永久なる「冬」の寒さのなかで独り眠っている。
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# by artbears | 2015-08-27 19:51 | 連白

漂白の虚空を飛ぶ紅色の鳥、記憶の中の鮮烈なる他者、終わり無き真実と残された足跡

 「夢」の中を決然と歩いている。彼は「口笛」を吹く素振りを見せる。彼の「口唇」が青白く震える。私は、「不安」に向かって歩く「私」に出会ったのです。それは、何処に向かっているのかを知らない「世界」のように、根拠の無い自信に満ちた足取りでした。それは、私にとっては未知なる永遠の「他者」でもあったのです。
 彼は「真実」を真剣に探しているようには見えない。「目的」と「方向」が見出せないでいる。そもそも「夢」の中では、ここにいてここにいないという「無名性」だけが存在している。途方に暮れて、独りで自分自身を見詰めることもない。
 「現実」と「夢想」との「境界」がなしくずしの「死」を迎えていたのです。リアリティが喪失している。「真実」が「現実」からすり抜けて、「夢想」や「芝居」のなかに潜り込もうとしている。しかし「夢」の中の「私」は、それを自覚できないでいる。シェイクスピアは言った、我々の「生」は「夢」と同じものからできている。「真実」は「夢」の中にも在るはずなのです。
 私は「視線」を右に向けて、アヴィニョンの「街角」を曲がりました。すると偶然、紅色の「鳥」が漂白の「空」を飛ぶ不思議なポスターが、私の「目」に飛び込んできたのです。季節は「冬」、しかも寒い寒い「夜」でした。しかし「情況」はと言うと、熱い熱い「夏」、しかも「正午」のように想われたのです。それは、「顔」を白く塗りたくったピカソの「娘達」が、バルセロナの「街角」に乗り出してくる「時間」でもありました。街中が「芝居」で溢れ返っている。そのなかに、一つの「真実」が在ると思ったのです。
 私は「視線」を左に移して、退屈な「街角」を何度も曲がりました。すると突然、紅色の「鳥」が漆黒の「穴」から飛び出してきたのです。地下の「暗闇」へと誘惑する「階段」が視えたのです。その黒い「穴」からは、悲惨で凍り付くような「風」が吹き上げてくる。悲痛で身悶えするような「音」が込み上げてくる。その「場所」は、遥か「彼方」の懐かしさの「予感」に充ちていました。その「風音」は、スティーブのストレート・ホーンの「穴」から聞こえてくる「音楽」に違いなかったのです。
 白熱灯が終わり無き「夜」を照らし出し、木造の階段式になった「劇場」の中央には、虚無を見据える円形の「空間」が現れたのです。彼の「音楽」との格闘はすでに始まっていました。リフが何度も繰り返される。無限の可能性のなかから、一つの「音」が慎重に選ばれては絶たれる。抑制しては解放される。沈黙と静寂の「空間」に戻される。透徹した「意志」の持続性と困難性が問われていたのです。究極の「表現」は在り得ない。それは、永遠の「彼方」でしか起り得ない。そのことを証明する「行為」が続いたのです。終わり無き「真実」が演じられたのです。
 「記憶」は、どのような「幻影」をも受け入れる。そして「幻影」は、時として「現実」となる。それは、京都での出来事でした。セシルのライブから二年、アヴィニョンのソロから三年の「時間」を経てのことでした。
 私は「視線」を左に向けて、四条河原町の「街角」を曲がりました。地下への暗い「階段」が現れる。すると突然、虚無を直視するかの「修行僧」が、ソプラノ・サックスを吹く朱色のチラシが、私の「目」に飛び込んできたのです。それは、鮮烈なる永遠の「他者」としてのスティーブに他ならなかったのです。
 京都の「外気」は研ぎ澄まされて美しい。私の「内面」までもが透明に凍り付くようだ。そして、その「夜」の「音楽」も、「他者」の終わり無き道程に残された「足跡」として、私の「記憶」の深奥で氷結している。
 それにしても、何という「冷気」なのだろうと、隣に寄り添うもう一人の「私」は、コートの襟を立てて呟いたのです。私達の「影」が足元の「闇」に溶け込むのが視えました。フリージャズの混迷の「闇」が拡がっていたのです。それは、ジャズの本質的な「矛盾」を照らし出す「影」でもあったのです。
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# by artbears | 2015-07-30 20:34

結末又は発端としての記憶、北欧の青空と精神の教会、御影石に封印された白い山野草

 セーヌは流れる。美しい足し算の永遠の反復のように流れる。「記憶」の川が「結末」から遡るようにして流れていたのです。「発端」には、セーヌ右岸の小高い丘には、カフェ・モンマルトルの「記憶」が在りました。もう一枚の「枯葉」が流れてきたのです。
 中古レコード盤の曖昧な灰色をした「眩暈」が回転している。それは、新宿での出来事でした。魔法をかけられた生き物のように動く「手」によって、セシルの「音楽」は無情にも断ち切られたのです。レコード盤の「裏面」が反転される。カフェ・モンマルトルがデンマークに存在したという「事実」が語られる。私の「記憶」も反覆されて、新しい「過去」に上書きがなされたのです。
 ストックホルムの地下道では、アルバートのサクソフォンがせせり泣く。時として「咆哮」する。その「音色」自体が悲しみを抱いている。その「旋律」自体が苦しみに耐えている。北欧の「青空」は鉛色に曇り、重い「苦悩」が垂れ込めていたのです。
 一方、セシルのユニットは、カフェ・モンマルトルでのライブに臨もうとしていました。その「音源」の一週間前に、二人の出会いが存在したという「物語」が現実味を帯びてきたのです。今となっては誰一人として確かめられない「物語」、それが「真実」であることに向かって、「記憶」が逆流を始めたのです。
 濃淡も様々な灰色の「雲海」が流動を速めていました。その「雲海」から、銀色の糸となって、銀色の針となって、光を纏った「雨」が落ちてくるのが視えたのです。それらが次々に「記憶」の水溜まりに突き刺さる。「記憶」の波紋は「真円」を描いて拡がり、やがて別の波紋と結ばれて、一つとして「原形」を留めるものは無かったのです。
 待ち合わせの「場所」であるカフェでは、黒いワンピースを着た「少女」が、淡い生成り色の「日傘」を差していました。その「日傘」に施された上品でエレガントな「刺繍」が紡ぎ出したのは、マネの「黒衣」とモネの「日傘」の結合したイメージだったのです。安堵と焦燥、興奮と冷静、それらの相反する「感情」を分け隔てるようにして、カフェの「空間」と「私」の間には、分厚いガラスの「壁」が立ち塞がっていたのです。
 私は、ガラスに映る「少女」の面影を追いながら、右方向に湾曲して下る「階段」を降りることにしました。多くの男女が「階段」の左側に並ぶ。彼等の「会話」と「視線」に注意を払う。一刻を争うことではないが、「記憶」の「原形」が失われてはいけない。私は、直感的にカフェへの「入口」の見当を付けていたのです。
 薄暗がりは息を潜めて、エレベーターの「扉」を開いて、私を待っていました。その「暗闇」に入るや否や、セシルのピアノの硬質で彫刻的な「音塊」が、圧倒的な「音質」の凝縮力と圧縮力をもって、その「空間」を封印したのです。
 エレベーターは最上階を目指して、猛スピードで上昇しました。「音」と「音」との緊張関係が高まる。「音間」に存在する不純物が削り落とされる。ある種の真空状態が創造される。セシルの静謐で高貴なる「音楽」が、その「空間」を支配したのです。
 薄明かりは息を弾ませて、エレベーターの「扉」を閉じて、私を招き入れました。その「暗闇」を出るや否や、深い縦長の構造の「教会」が、拝廊のような「空間」が現れたのです。「白雲」の高さにまで達する「天井」には、数学の計算式のように美しく端正な「枠組」が、ステンドグラスの代わりの「役割」を果たしていたのです。
 漆黒の御影石が至るところに転がっていました。その「鏡面」には「青空」に浮かぶ「白雲」が映され、その「内面」には純白の可憐な「山野草」が閉じ込められていたのです。清明にして厳格なる「精神」が視覚化されている。創造の「世界」が結晶化されている。私は、そのリリシズムに触れることにより、そのストイシズムを視ることにより、私自身の「精神」を変えることの可能性を感じ取ったのです。
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# by artbears | 2015-06-30 12:54 | 連白


ソフトマシーン・やわらかいきかいのひとりごとです
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