夢博士の独白



消えていく欧州の良識と幻想、反復する夢の奥に眠る記憶、崩壊する壁と守るべき精神

 赤い薔薇の「花」を胸ポケットに忍ばせた「男」は英国紳士然としていたのですが、彼の差しかざすフォックスの黒い蝙蝠傘とは、どことなく不釣り合いな歩き方をしていたのです。それは、一歩進んで二歩退がる、三歩進んで二歩退がる、「前進」とは言えないが、「後退」とも言えない。足踏みとは呼べないが、二の足を二度も踏んでいる。それは、自らの「影」を踏むことを極度に恐れていたのです。
 弱々しい「太陽」の「光線」が、それでも落下傘のように降りて来て、行き場を失った「影」が右往左往している。雨でもないのに蝙蝠傘は開かれて、遣り場を失った「影」が三々五々と集まっている。そもそも英国の「離脱」か「残留」かの選択は、気紛れなサイコロの「意志」に委ねられていたのです。欧州の市民社会の「良識」が急速に消えていく。EUの「幻想」が同時に消えていく。下部構造の「断層」が上部構造の「亀裂」を招いている。起こるはずのなかった「事態」が、事もなくあっさりと起こり始めたのです。国境の無い欧州の「夢」が終わり始めたのです。
 時として、紅く血に染まった「石畳」が本来の「色彩」に戻ったのは、白い麻のスーツに身を包んだいかにも英国紳士然とした「男」が、遠くから近付いて来るのが視えたからかもしれない。彼の足取りは、まるで小高い「丘陵」に吹く「微風」のようにして、山深い「渓流」に澄む「清水」のようにして、優しく軽やかに流れるようでした。
 時として、「記憶」が「夢」を引き寄せることがある。逆に「夢」が「記憶」を呼び覚ますことがある。過ぎ去った「時間」の絶えざる流れではなく、途切れ跡切れの「瞬間」が目の奥に浮んで来ることがある。それは、手の平から零れ落ちる「清流」の一滴一々の如く、その「純水」の最初にして最後の驚きと輝きをもって訪れる。
 小さなハリネズミが、大きな「毬栗」のようになって、舗装された「道路」の真ん中で真ん丸くなっていたのです。薄っすらと開いた「目蓋」からは、透明な「世界」が「純水」となって触れて見えたのです。彼は決して自尊心と虚栄心の「動物」ではない。彼は「恐怖」の「感情」の固まりとなって、自らを守る「鎧兜」となっていたのです。
 白いスーツの「男」が上着を脱ぎながら、足早に近付いて来るのが視えました。赤いスカーフを首に巻いた「女」が遠くで振り向いたのです。彼女の薔薇色の「唇」が動いて、誰かに何かを叫んでいる。それでもハリネズミは動く素振りを見せない。大型トラックが「石畳」を越境して「道路」に侵入しようとしていたのです。
 私はかつて目撃した。その「光景」が、「夢」のなかで再現されたことの不思議を想ったのです。黒い蝙蝠傘が白い落下傘に変わる。浮遊感とともに舞い降りてくる。白くて柔らかい上着が硬直したハリネズミの「身体」を優しく包み込んだのです。「毬栗」は自然に戻されて、やがて自らを開いて、新たな「一歩」を踏み出したのです。清々しい「小川」の絶えざる流れが、自然の永遠のリズムとハーモニーを奏でていました。遠い遠い「夢」の奥の奥に眠る「記憶」から、欧州の「良心」を垣間見た想いが蘇って来たのです。
 反復される「夢」、変質される「夢」、その度に確実に齢を重ねる「私」、全く同じ「夢」が繰り返されることはない。そこには、「記憶」の経験と蓄積と創造が関わっているに違いない。「夢」の中の「空間」は神出鬼没に現れては消えていくが、「夢」の中の「時間」にはどこか連続性が在るように思えてならない。「夢想」が与える「恐怖」のシナリオが現実化しようとしている。主は与え、主は奪おうとしている。
 わずかな「偶然」が「世界」を変えようとしているのかもしれない。それが、「歴史」の「意志」なのかもしれない。東方に向かって拡大するマルク経済圏、北方に向かって流入する異教徒移民、内部から湧き起こる排外的民族主義、欧州の理想主義と規範主義が創り上げたシステムの「崩壊」が始まったのです。英国の「離脱」なのか、それとも「脱出」なのかも判らない。新たな高い「壁」を築かなくてはいけないのだろうか。その内側で、果たして欧州の「精神」が守られるのだろうか。
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# by artbears | 2016-06-30 18:57 | 連白

固体となった記憶の夢、不在となった現在の私、黒いスフィンクスの死を告げる雨と影

 しばらくして「瞳孔」が開いてきたのだろうか、私の叫び声が「意識」の「扉」を開いたのだろうか、ようやく明るさに反応しようとする「感覚」が蘇って来たのです。明るく内省的な私が、暗くて内省的な「私」と入れ替わる。「両者」は離れていく。忘却のシステムが作動を開始したのです。それに連れて、あの「声」は引潮のようにして、遠い哀愁の「彼岸」から聞えてくるようになる。「死」は静かで小さな「声」となる。
 微睡みのなかでは、「夢」の続きが用意されて「事」が起きる。その「事」のなかでは、おぼろげな「文脈」とおぼつかない「人脈」が絡み合って「時」が過ぎる。その「時」のなかでは、厳かで堂々とした「黒鷲」の大きく拡げた「両翼」のようにして、曖昧で秘密めいた「記憶」が積層した太古の「地層」のようにして、私の「夢」が映し出されていたのです。私の「影」が黒い炎のように動いている。私の「身体」から離れないように燃えている。「私」の不在は明らかでした。
 それは、ゴシック様式の「大聖堂」のステンドグラスの「壁」のようにも見えました。下方から上方に向かって「視線」は彷徨いながらも「上昇」するように構成されていたのです。「過去」から「現在」へと繋がる「情景」が一つひとつの「枠組」のなかに嵌め込まれていて、下方の「枠組」の固定化と上方の「枠組」の流動化が進行していたのです。最上層を見上げると、私の「影」が赤い炎のように燃えている。私の「身体」から離れるように動いている。「現在」の不在は明らかでした。
 「記憶」のステンドグラスが起ち現われて来たのです。遠い「過去」は硬い「石垣」のように固まっている。そこでは「時間」は停止している。少なくとも「瞬間」のなかに断片化している。それらの「記憶」が固体化されることによって、「時間」を超越したイメージが発ち現れていたのです。
 しばらくして「瞳孔」が閉じてきたのだろうか、私の呻き声が「意識」の「扉」を閉じたのだろうか、再び目の奥の「暗闇」に順応しようとする「感覚」が戻って来たのです。暗くて何処までも続く「廊下」が視えて来ました。「死」が再び、あの「声」となって聞こえて来たのです。「次、次の死体」と聞こえて来たのです。
 慎み深く四枚の「扉」が、しかも同時に開くとは想ってもいない「事」でした。「廊下」の暗がりのなかで、四人の「影」が、一瞬のゲームのように素早く、白い炎のように輝き始めたのです。それは、白塗りの「道化師」の弱くて自虐的な「嘲笑」と強くて絶望的な「虚勢」のようにも見えました。一人目が、デヴィッドの「死」であったことは間違いなかったのです。
 二番目の「部屋」に入ると、人気の無い「舞台」のスポットライトはすでに消えていて、黒いドレスを着た一人の「女」が佇んでいたのです。その「姿」は、まるで黒いスフィンクスのように不思議な雰囲気に満ちていました。「舞台」に「雨」が静かに降っている。それは、彼女の吐く「呼吸」のように冷たく細かく柔らかい。
 ナントに「雨」が降る。深い「夢」の寒い「暗闇」に降っている。すると突然、スポットライトが燈されて、四人の「男」が同時に立ち上がったのです。寒々とした「舞台」には、主人を失った一つの「椅子」が遺されていたのです。「黒鷲」は飛ぶ鳥となり、「黒馬」は立ち馬となる。それは、想ってもいなかった「時」でした。
 見知らぬ四人の「影」が次々と「私」を通り抜けていく。彼等は何も問わない、何も語らない。ただ彼等を視ただけで、彼女がすでに逝ってしまったことが判ったのです。二人目が、バルバラの「死」であったことは間違いなかったのです。
 真っ赤な薔薇の「花」が、真っ青な「海」へと続く「石畳」を真っ赤に染めている。私の「瞳孔」は完全に開いて、深紅に染まった「眼球」が忙しく動いている。目の奥に真紅の薔薇の「華」が視える。私の「記憶」のなかで咲いている。散ることを忘れて咲いている。ナントに「雨」が降っている。
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# by artbears | 2016-05-30 20:36 | 連白

連鎖する時間と絵画の構造、楽園又は現実となった死、入口である出口に立ち竦む裸体

 超越的な「存在」、そのように「記憶」のなかで観える「高山」も、やはり「夢」のなかの「教会」のように垂直に起立していたのです。それは、西欧の建築的な「原理」に基づいているのかもしれない。「過去」から「未来」へと連鎖する「時間」は、「現在」という仮初めの「箱」に一旦取り込まれている。どこまでも奥行きの在る三次元の「空間」に閉じ込められている。そして、ある時に忽然として連続性が断たれて、その時に毅然として垂直性が建ち上がる。瞬時にして「全体像」は把握される。それは、西欧の絵画的な「構造」に基づいているのかもしれない。
 私は歩くことは厭わなかった。走ることですら、さしたる「苦痛」ではなかった。しかし、後方を向いて「前方」に歩くことはできても、前方を向いて「後方」に走ることはできない。そう、私は「川」を挟んだ「堤防」を「下流」に移動していたのです。想定外に水嵩を増す「水流」に「不安」を覚えながらも、瞬きもしない間に訪れる「未来」が、想定内に収まることは祈るしかなかったのです。
 まるで「絵巻物」のようにして、「川」は一方向に緩やかに流れて来たのです。ゆっくりと「時間」と寄り添うようにして、「物語」は語り継がれて来たのです。そして、明らかに「現在」は「過去」と線的に連鎖していた。「絵巻物」はさらに巻き解かれて、人々の「記憶」のさらなる蓄積を促した。人々は「梅園」に集い「桜園」に酔い痴れて、そして「現在」の延長線上の「未来」を想い描いて来たのです。その先には、「楽園」としての「死」が想い描かれていたのかもしれない。
 プッサンの「絵画」が、私の目の奥に浮んで来たのです。豊かな「理想郷」に忽然と建ち現われる「墓標」、三人の「牧人」と毅然と立ち振る舞う一人の「恋人」、「生」と「死」が対比されて、「過去」と「未来」との対話が始まる。「過去」と「現在」と「未来」が一つに合体して、その「構造」が示される。「永遠」のイメージが起ち上がって来たのです。「私」はアルカディアにいたのです。そして「死」も「理想郷」にいるのです。「死」は片時も忘れることのできない「現実」となったのです。
 両側の「堤防」を無数の人々が歩いていました。一人として「上流」に引き返せる「人間」を見付けることはできない。何と従順な、それは、まるで飼い慣らされた「牧羊」の群れのように見えたのです。そして、「川巾」は次第に狭くなっていく。「水流」は次第に激しくなっていく。その先には、真っ暗闇のトンネルの「入口」が、一方向に空いた真円の「出口」が待っているのが視える。「瀑布」となって落下するであろう「死」、それに立ち向かう「覚悟」が問われていたのです。
 ほとばしる「液体」、それは「汗」と呼ぶよりも、「身体」に付着したゼリーのようでした。「次、次の人体」、その「声」は、胸の悪くなるような「悪臭」を放っていたのです。無数の人々が無言の「行列」に繋がって、裸となった「私」の前後には、血の気の失せた青白い「裸体」が並んでいたのです。「次、次の裸体」、その「声」は、「砂漠」のように白く乾いて、「深海」のように黒く虚しい。私は「人体」なのか「裸体」なのか、私は叫び声を上げる。それでも目覚めない時には、その「声」に従うしかない。
 恐らく、誰にも理解してもらえない、いや誰もが理解したくない「現実」が、私の「夢」のなかにも「存在」しているのです。この「行列」から抜け出ることができるなら、何でもできる。私の「悲鳴」は、私の「夢」のなかの「私」にしか聞こえない。
 私は並ぶ、私は叫ぶ、私は乞う、その「苦悩」は、夜毎に「私」を強い眼差しで見詰める「彼等」の「視線」のなかにも映えている。すでに「裸体」となった「私」は、これから「死体」となる「私」と手を握り合うしかないのだろうか。そして「裸体」に残る「体温」が、冷たい「死体」を温められる「時間」は、どれほど残されているのだろうか。それでも目覚めない時には、あの「声」に従うしかないのだろうか。
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# by artbears | 2016-04-29 14:01 | 連白

盲目の扉又は聖書の真実、地球に堕ちたロックスター、超越的存在と英訳された私の死

 私の「左眼」に薄くて透明なフィルムが貼られる。私の「眼球」を正しく切り開くための「被膜」が張られる。それは、事前ではあるが、一方的に告げられた「手順」でした。拒むことのできない小さな「死」への「入口」が視えてくる。引き返すことのできない「扉」の向こうには、「聖書」を読むまでもない「真実」が待ち構えている「予感」がしたのです。
 デヴィッドの「左眼」は純血の緑色だったのだろうか、それとも灰色の「銀狼」との混血だったのだろうか、何れにしても正常な「右眼」とのバランスを失っていたのは確かでした。「都市」を彷徨う老いた「銀狼」は、初めから「死」を見詰めていたのです。視えない盲目の「扉」が迫ってくる。「手品師」の滑るような「指先」が、鋭利な「刃物」を操っている。その金属の冷たく人工的な「閃光」が、私の「記憶」を呼び覚ましたのです。
 デヴィッドは地球人であるボウイを殺すことによって、異星人であるジギーに生まれ変わった。「観者」からしか視えない「偽者」のジギーを演じることによって、「本者」のジギーに成り切ることができた。そして、多くのロックスターの忘却という「死」を目撃したデヴィッドは、今度はジギーを殺すことによって、まるでイエスのように「他者」の「記憶」に生きることを選んだに違いない。
 ジギーとしての最後のコンサートでも、やはりブレルの「私の死」はインターバルの前に歌われていた。私の「記憶」の中でも、多くの「認識」の「紐」が次々と繋がって行ったのです。この「世界」は「認識」の数だけ「解釈」が成り立つのかもしれない。確か、スコットの最初のアルバムでも、「私の死」はA面の最後に歌われていた。二人の英訳された「歌詞」には違いはあるが、「死」は仏語本来の抽象名詞や女性名詞ではなくて、擬人化された男性名詞として扱われていた。私の「記憶」が浮かんで来たのです。「私の死」が、私の目の奥で歩き始めたのです。
 真新しい「墓標」が視えて来ました。その眩しさ、その厳かさに老い衰えた「放蕩者」は、思わず「顔色」を曇らせたのです。私は「口笛」を吹くが、どんなに強がっても、過ぎ去った「時間」には届かない。黒い砂漠の「流砂」には聞こえない。その先の「死」が、真夜中に現れる「魔女」のように待っているのです。
 朽果てた「墓石」が視えて来ました。その周りには、漆黒の「影」が蹲っていたのです。それらの「影」が、申し合わせたようにして散らばっていく。献花された「花束」、咲き乱れた「花園」、生い茂った「草花」、それらの至るところに隠れて、「死」は忍び寄っているのです。あの「手品師」の大きく開いた袖口から、「白兎」と「黒犬」が走り去るのが視えました。盲目の「扉」は予告なしに開かれるのです。
 ブレルの「歌詞」が繰り返して続く。例え「扉」の向こうに何が待ち受けていようが、敢えてすることは何もない。それが「天使」であろうが「悪魔」であろうが、私の知ったことではない。確かなのは、その「扉」の前には、いつも「貴女」がいて、その冷たい「指先」が、いつか私の「両眼」を閉じることなのです。私の目の奥では、忘却の「帆船」が白い「航跡」を描いている。それは、不可逆的な「過去」を引き摺りながら曳航している。
 スコットは、アイドルと見做されることを「拒絶」することで、自らの「人格」を創り上げた。一方、デヴィッドは、自らのイメージを創り変えることで、ロックスターとしての「延命」を計り、その商業主義と芸術性の折り合いを付けることに成功した。彼等は、自らの絶頂期に自らを葬り去ることによって、いかにして「死」を迎え入れるのか、いかにして「生」を終わらせるのかを、常に「意識」していたのです。
 いくつかの「墓地」を通り過ぎて行く。すると、遥か「彼方」に「高山」が観えて来たのです。超越的な「存在」が、この世からの「孤高」が見えて来たのです。デヴィッドの「訃報」が届きました。私は、あの「頂上」に在って、この世を見下ろすことの「孤独」と「恐怖」を想ったのです。そして、遥か「彼方」に超越的な「存在」が視えたからこそ、救われたことを思ったのです。
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# by artbears | 2016-03-29 20:55 | 連白

赤く起立する教会と旋回する光輪、巨大な氷山と夢想の大海、病室から視えた六月の月

 私の「記憶」が正しければ、開け放たれた「窓」は二つであって、そこから観える「空」は一つであって、それは、私の「心」を映し出したものでした。解き放たれた「白鳩」は十二羽であって、それらは、「対岸」に視える真っ赤な「尖塔」の周りを、真っ白な「光輪」となって旋回し始めるのです。やがて、左の「窓」は閉じられても、慈愛に満ちた「春光」は、右の「窓」から優しく射し込んでいたのです。
 私の「記憶」が正しければ、その「光景」は「夢」の中での出来事でした。それ故、それが「夢想」であったとの「判断」も容易に下せたのです。儚く移ろいやすい「記憶」は、巨大な「氷山」の一角となって、「夢」の「大海」を漂流している。その「大海」から突き出た小さな小さな「尖塔」に辛うじて生息している。
 「対岸」は「島影」よりは明瞭に見えたのですが、ジッと目を凝らして視ると、水平線が「波浪」のように上下に揺れていたのです。私は平衡感覚を失ったのだろうか。強い船酔いのような「不安」が増大する。「眼球」の裏側に注射針が撃たれる。楽観的な「夢想」が悲観的な「幻想」へと脱皮しようとしている。この「幻想」が、赤く聳え立つ「尖塔」への「幻視」を欲したに違いない。ところが、その垂直に起立していた「教会」すらも、大きく左右に揺らぎ始めたのです。
 このすっかり騙されてしまう「夢」の現実感は、何らかの「意図」があって現われてくるのだろうか。その「背景」には、どれほどの「意味」が隠されているのだろうか。それは、ポロックの「絵画」のようには「中心」を喪失していない。実は「背景」は見えていない。「意図」と「意味」は、その「中心」を視ることに在るのだろうか。そもそも、このリアルな「感覚」とは何なのだろうか。ポロックが無意識のうちに提起した「絵画」の「問題」は、「夢」の中にも存在していたのです。
 私の「夢」の続きは「対岸」から始まりました。人影の消え失せた「街角」を曲がると、「濃霧」は一層深まって、その「悪霊」のような「冷気」を吸い込んだ「私」は、目の前の茫洋とした「教会」が、あの巨大な「氷山」のように見えることに立ち竦んだのです。とにかく、この「幻想」の「幻視」への展開を止めなくてはいけない。ロバートの繊細で消え入りそうになる、それでいて、温かく誠実な人柄が偲ばれる「歌声」が聴こえて来たのは、まさに、その時の事でした。
 聳え立つ赤い「教会」、その「尖塔」は「濃霧」によって隠されている。その上の「雲海」が「濃霧」を圧し下げている。抑圧的な「教会」、その重厚な「扉」を開けて駆け込むと、地下への「階段」が「視界」に入ったのです。何の迷いもなく、「階段」を駆け下りた「私」は、地下室の木製の「扉」を開きました。そこには、車椅子のロバートが、愛用のピアノを前にして静かに座っていたのです。
 「階段」から転落して失った「自由」、その「制約」を受け入れたからこそ創れた「音楽」、そして、虚飾と詭弁を排したシンプルで力強い「言動」、それらは、彼の一貫した「音楽」の「社会」との関わりを意識した「思考」から導き出されている。それは、「社会」の「不実」に対する告発と変革を希求する、ロックの原初的な「精神」に根差したものでした。だからこそ、彼の「音楽」は中心性を失うことなく、リアリティーを持続している。「自由」の貴重さと困難さと危うさが、その「音楽」から聞えてくる。強靭で柔軟なカンタベリーの「大木」は、豊かな「果実」を実らせたのです。
 私の「左眼」の「手術」が間近に迫っていることが告げられました。車椅子に座っている「私」に気付く、奥の奥に在る「病室」に移動する。後方の「人影」が前方の「扉」を次々に開けて進む。左右の氷のような青白い「手」、その「冷気」が「私」を運ぶ。
 私の「夢想」が正しければ、「病室」には一つの「窓」がありました。そこから観える「夜空」には、美しい「六月の月」が視えたのです。何度も何度も視て、何度も何度も聴いた「記憶」が、蘇って来たのです。若々しいロバートの「歌声」が、リアルな「月夜」に響き渡ったのです。一羽の「白鳩」が舞い戻ったことが告げられたのです。
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# by artbears | 2016-02-29 20:38 | 連白

水面に映る魅惑と畏怖の感情、漆黒の暗闇からの脱出、蝋燭の炎と空に開け放たれた窓

 私の「意識」は「森林」から抜け出して、「坂道」を下り、でも、あの美しく澄んだ「湖面」のような「瞳」が忘れられなくて、何度も何度も振り返らざるを得なかったのです。それは、どことなく冷ややかで、近寄りがたく、遠くに感じるものでもありました。その美しさへの「魅惑」と厳しさへの「畏怖」、それらの相反する「感情」の「桎梏」から抜け出そうとしていたのです。
 あの時、「桎梏」は漆黒の「暗闇」となって、その「魔手」が足元に忍び寄っていた。私の「意識」は夢遊病者となって、鬱蒼とした「森林」の中を彷徨っていた。その「足跡」は消されているが、その「記憶」は身体に残されている。
 その時、木漏れ日が眩しく射して、私は薄明の「世界」に目覚めたのです。強烈な渇望感に立ち止まったのです。厳しく凍った「湖面」が観えて来ました。「水面」には無表情の「能面」が視えて来ました。存在すると思って凝視する、しかし、そこには何も無い、無明の「世界」が映っていたのです。
 この夢幻の「世界」から、何とかして抜け出さなければならない。その想いが深まれば深まるにつれて、漆黒の「暗闇」は底無しに思えたのです。ケビンの「音楽」との出会いは、そのような出口無しの「暗闇」での出来事だったのです。
 曖昧模糊な「地平」と広大無辺な「荒野」が拡がっていました。マレーシアの心地良い「微風」が吹き抜けていく。マジョルカ島の風光明媚な「島影」が観えてくる。玩具の「悦楽」とは何か、月に撃つ「弓矢」とは何か、バナナへの「偏愛」とは何か、そのどこかユーモラスで諧謔性に富み、茶目っ気たっぷりのボヘミアンが創り出す「音楽」は、荒れ果てた「原野」を実り豊かな「田園」に変えて魅せたのです。暗くて陰鬱な「世界」は、青く晴れた「空」に開かれて、いきいきと「生気」を取り戻していったのです。
 こんもりとしたなだらかな「丘」が視えて来ました。その「丘」で、一個の「小包」が手渡されることになっていた、と囁く低音の「声」が、「耳」の奥から聞えて来たのです。「小包」は時限爆弾のように開かれて、その中には、おとぎの国の小さな「城」が丁寧に包まれていました。それは、「夢」の中でしか起り得ない、摩訶不思議な「体験」のように思われたのです。そして驚くことには、二頭の雄雌の「鹿」が、私の左右に寄り添うようにして、「小包」の内部を興味深く覗き込んでいたのです。
 「城」が巨大化されたのか、「私」が相対化されたのか、それは知るすべがない。そうこうしていると、「城」への「入口」である、跳ね橋がゆっくりと下ろされたのです。その一部始終を、我々は、息を呑んで見守っていました。我々が、誰かに招き入れられていることは確かだったのです。あの低く太い「声」が再び、「水」の底から聞えて来たのです。
 螺旋状の「階段」は、まるで「天」に駆け登る「竜」となって、回転しながら「尖塔」を目指していました。蝋燭の「炎」が「階段」を照らし出している。「壁」には、「夜」の舞踏家の「影」が踊っている。夢遊病者の「軍隊」の正確無比な「靴音」が聞えてくる。やがて、独りぼっちの「私」に気付く、そして、漆黒の「暗闇」に取り囲まれていることを知る。「孤独」が「私」に追い着いて、追い越そうとしていたのです。
 「記憶」の中にある木製の「扉」は開いて、私を待っていました。私の「入室」が確かめられるや否や、ハンドルの無い「扉」は閉じられたのです。後方を振り返って、再び前方を振り向くと、「窓」は開け放たれていて、白いレースのカーテンが「風」に靡いていたのです。窓際には黒い「椅子」が在って、その上に置かれた蝋燭の「炎」が揺れていたのです。
 黒い「影」は白い「鳥」となって、「窓」から飛び立った、そのような「形跡」が残されていました。ベッドの上には、「少女」が包まっていた真新しいシーツが敷かれていて、そこには、彼女の「体温」が感じられたのです。私は、彼女が、あの漆黒の「暗闇」の「魔手」から逃れられたことを願わずにはいられなかったのです。
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# by artbears | 2016-01-30 18:35 | 連白

風に吹かれる言葉と存在の偶然性、半島又は島影と津波の記憶、湖水に群れを成す雌鹿

 白い「芥子」の「花弁」が風に吹かれていたのです。「目」の奥で白く散り始めたのです。それは、「花冠」を構成している「花葉」と呼ぶべきなのか、「萼片」と呼ぶべきなのか、それらの「言葉」が「花弁」となって、風に吹かれていたのです。
 私に「言葉」が無ければ、「言葉」とイメージの「符合」が無ければ、その「存在」の曖昧さは捉えどころがない。永遠の「彼方」に取り残されている。それは、「夢」の中をヒラヒラと飛び交う、名前も呼名も知らない、白い紙切れのような「蝶」と何ら変わらなかったのです。「存在」は、何時も掴み取れない、何時も擦り抜けている。「夢想」のようにフワフワと浮かんでいて、「真実」の重みから「自由」でいる。
 鬱を患った「森林」、疲れ果てた「坂道」、熱を帯びた「悪夢」、それらを通過する「儀式」が終わりを告げるのは、この「半島」の「頂上」での出来事のはずでした。そのことが、「友人」からのメールには仄めかされていたのです。ところが、いくら周りを見回しても、「友人」の「面影」は見当たらない。白々しい「空虚」だけが待っていたのです。
 そもそも「友人」とは誰だったのだろうか。その「顔」がどうしても想い浮かばない。それは、「自我」を確立するための「他者」だったのだろうか。私は、その「顔」を一心に想い描きました。すると、私の「心」が二つに分かれて、その「割目」からのっぺらぼうの白い「顔」が覗いたのです。とどのつまりは何時まで経っても、私は真の「自己」には出会えない、出会い損なっていたのです。
 「牡鹿」は群れを成して「半島」を目指していた。その「幻影」が再び蘇って来たのです。「傍観」せざるを得なかった私は、陸地を迂回する「選択」をして、この「半島」に辿り着いたに違いない。その「記憶」が再び甦って来たのです。「幻影」と「記憶」が合成されて、「島影」が再び「目」の奥に現われようとしていたのです。
 「島影」を視てはならない。その「幻影」が、あの大津波の「記憶」に呑み込まれなくなるには、どれだけの「時間」が経てばいいのだろうか。どれほどの「道程」を歩めばいいのだろうか。ディランの「歌詞」が聞えてきたのです。答えは「風」に吹かれている。答えは「風」の中に舞っている。「事物」の本質は偶然性に在る。彼の「言葉」は、まるで「存在」の「定義」と同じように、あまりにも曖昧で捉えどころがなかったのです。
 「風」が再び吹き、何かが壊れてしまったことを告げていました。一枚の白い紙切れがクルクルと舞い降りてくる。何かが書かれているようだが、誰も拾って読もうとはしない。そして、自ら「風」に吹かれようとしている。茫然自失としていた「私」は、それに気付いて、それを掴み取ろうとしたのです。その「瞬間」、一枚の白い紙切れは、まるで一匹の「蝶」のようにして舞い上がる。居心地の悪い「意識」だけが取り残される。
 気が付くと、私の「意識」は転がる「小石」の「内側」に閉じ込められていたのです。「小石」は「坂道」を転がり落ちる。「外側」の「世界」が丸く観える。魚眼レンズから覗いたように円く視える。クルクルと「回転」のスピードが速まる。やがて、円形の外枠の「内側」に黒い「眼球」が並び始めたのです。透き通った「泉」のように純粋で、穢れを知らない「瞳」が回り始めたのです。
  「雌鹿」は群れを成して「湖面」を取り囲んでいた。「水」を飲みながら「風」を読んでいたに違いない。波ひとつ起たない「湖面」は美しく打ち震えていたに違いない。私の「意識」は、その「静寂」を打ち破るように浮上したのかもしれない。その「水音」に「雌鹿」の「耳」がいっせいに反応したのです。聞き「耳」が南の「方角」に向けられたのです。
 何頭かの「牡鹿」が「海峡」を渡り終えた報せが届いたのかもしれない。彼女たちの「耳」は、「世界」の悲痛で悲惨な「物音」に向けられていたのです。多くの「難民」が「国境」を越えようとしている。北イタリアの都市国家の「光景」が、揺れ瞬く「瞳」の奥の奥に映し出されていたのです。
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# by artbears | 2015-12-31 17:08 | 連白

北上する牡鹿と落下する星座、脈絡を欠いた夢想又は悪夢、象徴としての芥子と十字架

 それは、甘い「夢」のように頼りなく、白い「雲」のように気紛れに、私の目の奥に現われたのです。それは、液晶の薄っぺらな「表面」とは明らかに異なる、古いブラウン管式のTVモニターの奥に在る「暗闇」に浮かんでいたのです。アンディの「冷笑」が視えては隠れる。ヴェルヴェッツの「音楽」が聴えては消える。その一見秘かで穏やかにさえ見える「光景」が急変することは、今さら驚くような「事態」では無かったのです。
 遥か彼方に「島影」が視える。そのことは、どちらかが「半島」であることを示唆してはいるが、そのことを確かめる「手段」は与えられていない。私は、何時ものようなゲームが、何時ものようなルールで始まったことを知らされたのです。
 「白雲」は千切れて、「陽光」ですら迷走している。やがて「夜」を迎えると、端然と輝く「星座」が崩れて、粉々となった「流星」が地上を目指して突入してくる、それは、目に見えていました。イメージがかくの如くして「出現」するのは、先刻承知のはずでした。「空間」は、まるで書庫に眠る「古書」のように厚みを増し、「時間」は、まるで脱兎の「心臓」のように、その「鼓動」を高めるのです。絵空事とは呼べない「事態」が迫っている、そのことが、「夢」の中で起ころうとしていたのです。
 しばらく音信の途絶えていた「友人」から、北の「方角」で待つというメールが届いたのは、確か数日前のことでした。取るものも取り敢えず、慌てて旅支度を終えた私は、何か途轍もなく大きな忘れ物をしているようで、そのことが「重荷」となって、なかなか重い腰が上がらなかったのです。それが、無為に過ごした罪悪感からきた「感情」であったことを知らされたのは、確か数日後のことでした。
 柔らかい「絹糸」で編んだカーテンを引くと、硬いガラス製の「窓」の向こうでは、相変わらずの不穏な「気象」が続いていました。何もかもが、有無を言わさずに飛ばされている。「木立」がザワザワと波打ち、「電線」がブルブルと震えている。それは、古い白黒の「無声映画」がカラカラと早回しにされているようであり、私の失われた「過去」のバラバラに切り取られた「証拠写真」が飛び散っているようにも見えたのです。
 私には、腰が軽くなるまでの「時間」は与えられていない。その「自覚」に、私の「意識」がようやく追い着いたのは、北上する鹿の「大群」が「半島」を目指して、次々と「海面」へと投身する「光景」が目に飛び込んできたからでした。このままでは、「約束」した「時刻」に間に合わない。そもそも、私は「約束」などしてはいないが、「反古」にしたという「記憶」は残っている。落下する「流星」と投身する「牡鹿」のイメージには、私を急がせる「理由」が隠されているに違いないと思ったのです。
 「海中」から見上げている黒い塊のような「影」に気付いたのは、「夢」が別の「展開」を欲望したからでした。それは、私の「悪意」なのだろうか、それとも黒いだけの「岩肌」なのだろうか、何れにしても、その「存在」が極めて不気味に思われたのです。案の定、「海面」近くでは、無数の四本の「手足」がもがいている。無数の「苦悩」が空回りをしている。無数の「労力」が水の泡となって消えている。黒い「眼球」がゴロンと動いて、私は狙われているのか、救いを求めているのか、「夢」は一向に語ろうとはしない。
 私はきっと、悪質な「風邪」に体力を奪われてしまったのです。そして、いくつかの「悪夢」に魘されながらも、この「海面」を見下ろせる「半島」に辿り着いたのだと想ったのです。「頂上」では、ヒマラヤに咲く白い「芥子」が「種子」を膨らませていました。白い「粘液」が滴り落ちて、その真っ白に染まった「絨毯」の上には、「太陽」の光線が束ねた「金髪」と張子の「赤牛」が納まった「竹籠」が置いて在ったのです。
 私の「視線」は遠方の「島影」を探し求めました。その「幻影」に向かって、鹿の「大群」が泳いでいたのです。やがて「夜」を迎えると、光り輝く「流星」が「島影」に代わるに違いない。白い十字架のような「灯台」が視えてきました。その「希望」に向かって、「小舟」が漂流していたのです。白人の「男」は明らかに被弾していて、黒人の「女」は強く「幼子」を抱きしめていたのです。
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# by artbears | 2015-11-30 20:40 | 連白

イメージの出現と複製、現代の記号性と芸術の無化、ニヒリズムと死の影を帯びた概念

 私の「過去」は一体全体どこへ行ってしまったのだろう。それは、「肉体」のどこかに固定されてはいない。されど、「精神」とは縁がない。それ故、「記憶」は消えて行く。「音楽」のように流れてはいるが、「映画」のように途切れて停まることもある。全体が観えることはないが、一体が視えたという確たる「幻想」を抱くこともある。
 彼女は無造作に片手で「黒髪」をかき上げたのです。それが、「敵意」からなのか、「好意」からなのかは、私の「記憶」には残されていない。それが、「映画」の一場面での出来事だったという「記憶」だけが残されている。彼女が「黒人」であり、涙に溢れた「眼球」が強く何かを訴えていて、それに、私の「感情」が刹那に反応した。恐らく彼女自身も内心では驚いている「表情」、それが、「演技」であることは見え透いていたのです。
 イメージは一体全体どこから生まれて来るのだろう。それは、「記憶」のどこかで流動している。されど、「知覚」の網ではすくえない。それ故、「観察」しても捉えられない。「写真」のようにどこかの「場所」での出来事ではあるが、「絵画」のように何かの「形態」を描いたアリバイでもある。それは、常に「過去」に生きていて、時に「未来」を向いている。
 イメージは何かを指向している。何かを示唆して暗示している。その「何か」とは一体全体どこに在るのだろう。私の「外側」に在る何かが、私の「内側」に在る何かと感応していることは間違いない。五感で捉えた「情報」を「記憶」のデータファイルで参照する。物質と行為によって初めて「出現」するイメージ、それまでは、永遠の「記憶」の中に眠っている。
  「記憶」の深い森に分け入って観よう。未知なる「道」に誘われるようにして、私は「意識」を見失って行ったのです。「風」は、そのことを報せてはくれないが、その「音」は知らせることを怠らなかった。「草木」が靡き、「落葉」が舞い、「小鳥」は寄り添って「体温」を温め合っている。「風」は尚も吹き、何かが壊れつつあることを告げていたのです。イメージの「扉」が開かれるようにして、「森」の奥の奥の「湖面」が光り輝いていたのです。
 何かしらの漠然とした「期待」が無かったと言えば、嘘になる。ところが「期待」は、裏切られることを秘かに欲してもいたのです。歩いて行くしかない、と思った瞬間、遠くに在ったはずの「湖面」は、私の「心」の中で宙づりになっている。今ここに在る、という「実感」、これすらも、「他者」による「体験」のイメージではないのか、単なる「概念」の「複製」ではないのか、という「疑惑」が浮かび上がったのです。
 例え、それが借り物のイメージでもいい、と思った私は、蒼い「森」の中でひっそりと息を潜める「湖面」を覗き込みました。「風」の気配が再び通り過ぎて、「気象」の変化が告げられる。「鏡面」は揺れ瞬いている。あの「映画」の中のいくつかの「光景」が見え隠れしている。それらは、その「真偽」はともかくとして、私の「現在」を形成する「断片」となって映し出されていたのです。
 無数の「画像」が無数の「弾丸」となって、私の「記憶」の中を飛び交っている。弾痕と血痕の「痕跡」が生々しい。その「戦場」は、世界のどこかの「現実」であるとの「仮説」も成り立つ。白人である「男」と黒人である「女」が、命懸けで一人の「赤子」を守ろうとしていたのです。幼い命に「未来」を託そうとしていたのです。
 重い、あまりにも重篤なメッセージに疲弊した私は、無作為にテレビのチャンネルを切り替えました。間髪を入れずに、別の「映像」が現われたのです。その「画面」には、快感原則の「文化」が、大量生産を象徴する「記号」と大量消費を刺激するイメージが氾濫していたのです。デザインとしての「表現」が横溢していたのです。
 軽い、あまりにも軽薄なメッセージに辟易した私は、無造作にテレビの「電源」を落としました。すると、その「画面」には、全てが無になるニヒリズムの「闇」が、あのウォーホルの冷たく鋭利で死の影を帯びた美の「概念」が、いつまでも映っていたのです。
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# by artbears | 2015-10-31 18:18 | 連白

空間の概念性と概念の抽象性、表層の記号と深層の真実、崩壊する都市又は精神の危機

 二つの「川」が合流する。京都のどこかで、一つの「川」を形成している。その「場所」が思い出せない。その「地図」が想い描けない。それは、「記憶」のどこかに閉じ込められている。それは、重い「空気」の匂いのように漂っている。Y字型の「記号」が、私の目の奥で浮かび上がってきたのです。
 一つの「川」が逆流する。脳裏のどこかで、二つの「川」に分岐している。次々と枝分かれを繰り返す。渓流は細流となる。まるで毛細血管のように「記憶」の周りに張り巡らされていく。「時間」の連続性が断たれたのです。「空間」の概念性が生まれたのです。失われた京都の「記憶」が集まって、象徴的な「概念」となって表れてきたのです。
 夜の京都の「情景」を想い描く。しかし、記号化された「情報」と身体化された「概念」に囚われてはいけない。なぜならば、抽象的な「記号」は具体的な「事物」の表層を滑るだけで、その「事物」との真の出会いを深層に隠している。その「事物」との他の出会いを背景に退かせている。深い「夜陰」に紛れ込まなくてはいけない。暗い「迷路」に忍び込まなければいけない。
 夜の古都の「情景」を想い歩く。すると「夜陰」のなかに、妖気漂う「枝垂桜」が咲いていたのです。「迷路」のなかに、幽気漂う「五重塔」が聳え立っていたのです。無音の「足跡」と無言の「会話」が聞える。二つの「人影」が先導して「石段」を降りていたのです。一つの「満月」が背後を照らしていたのです。それらは、自らを名乗らない。それらは、知覚と思考を誘導する「記号」のようには、自らを明かさない。
 長い溜息のような「夜陰」と重い眩暈のような「迷路」は続きました。突然の脈略も無く、何かの「影」が駆け出したのです。何かの「影」が駆け込んだのです。「月光」が静かに降り注ぐなかを、一匹の「黒猫」が駆け抜けたのです。
 胸を突く濃密なる「感情」が、その「黒猫」を追い掛けました。親密であるが隔絶した「存在」でもある「黒猫」、その「目」は「満月」のように見開き、私の「視線」を跳ね返している。そして、私の「内面」を「鏡」のように映し出している。視ることは、深く考えることでも在ったのです。
 左岸から右岸なのか、左京から右京なのか、私自身の「座標軸」が定まらないままに、私は、移動する巨大な「影」の群れに呑み込まれてしまったようでした。カラフルな「色彩」が「視覚」を刺激する。ノイジーな「音響」が「聴覚」を刺激する。それが、果たして「雷光」なのか、「電光」なのかの判断もできない。「黒猫」を見失う。「月光」を見失う。あの「夜陰」と「迷路」は、人工的な光源によって「居場所」を奪われていたのです。私は、様々な「記号」で溢れ返る「都市」の住民となっていたのです。
 真夜中の「信号」が「黄」から「赤」に変わろうとしていた。その「意味」するところが瞬時に理解される。私の知覚と思考は決定されている。私の掛け替えのない「自由」は、「都市」の「機能」に委ねられていたのです。モンドリアンが想い描いた「秩序」と「構造」が、「自然」から遠く離れた「都市」の抽象的で概念的な「世界」が、私の目の奥で浮かび上がってきたのです。
 京都からロンドンなのか、東洋から西洋なのか、いずれにしても、それは、昼とも夜とも言えない、現代とも近代とも呼べない「空間」のようでした。「人影」が消えた「街角」を曲がる度に「濃霧」は一層深まり、「都市」の退廃と混沌は深まっていたのです。
 その「場所」は、「個」の自己表現と自己解放への「欲望」を、まるで癌細胞のように吸収しながら肥大化している。ジャズもロックも、その社会システムに完全に呑み込まれている。エントロピーは着実に低減している。
 遥か彼方に「老木」の風雪に耐えながら佇む「姿」が視えてきたのです。ハミルの孤独で悲痛な「歌声」が聞えてきたのです。「感情」は激流となって自己表出されている。しかし、「事物」とそれに向き合う「精神」は決して流されてはいない。聴くことは、深く考えることでも在ったのです。
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# by artbears | 2015-09-30 21:13 | 連白


ソフトマシーン・やわらかいきかいのひとりごとです
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