もう一度、土砂降りの「雨天」を見上げることにしました。ところが「夢」の中では、物理的な「水滴」が落ちて来ることはない。私の「心」が泣き濡れているのかも知れない。私の「心」が抜け落ちているのかも知れない。そこは深くて浅いのか、その「底」は悲しく嘆く、その「対象」は見えて来ることはない。
六台のタクシーが「水飛沫」を上げながら、私の「目」の前を通り過ぎて行くのです。
私の「意識」の周りをクルクルと回って、時には「豪雨」となって、「朝」に起きて「夜」に眠るが如く、それは「規則性」を繰り返しているのです。然るに、同じ「意識」が還って来るとは限らない。急がなければならない。新幹線が「定刻」に発つとは限らない。
私の「視線」は物憂げに傾く、私の「心臓」も物悲しく響く、見たくはないが見なくてはならない「箱」が、空気より重い「臭気」のように視えて来たのです。バローの「吐息」が聞こえて来る。彼の「体臭」が閉じ込められている。いっそのこと、この「箱」を開け放って、残酷な「太陽」に曝すべきなのか、冷酷な「寒気」に晒すべきなのか、嗜虐的で自虐的な「欲望」が湧き上って来たのです。
私の「身体」は少なからず揺れて、それでも思い直して、「意識」は何ものかに向き合っていたのです。「暴風」に散り散りに吹かれても留まっていたのです。見られているという「意識」が、自らの「内面」に現れる限りにおいてしか、「存在」は許されない。バローとは、私自身の「分身」なのかもしれない。それは仮象の「私」であり、私の「内面」において、変貌を繰り返している「他者」なのかもしれない。
「週末」には「終末」のパリに戻らなければならない。別の「夢」が割り込んで来たのです。黄色いベストの「情報」が黒色のペストの「記憶」を呼び覚まして、赤色に燃える「大聖堂」の「映像」と結託する。混迷と虚偽に満ちた「現実」が、いとも易々と「悪の華」へと変貌して行く。仮想の「現実」が、私の「内部」と「外部」で捏造されて行く。
私は立ち止まって、身を引き締めました。そっと耳を澄ませると、永遠の彼方から、優雅で美しい「歌声」が聞こえて来たのです。その「歌声」を追って、いくつかの「街角」を曲がると、足元には漆黒の「闇夜」が待っていました。覗き込むと、まるで黒砂糖のように甘く切ない、謎めいた「純水」が揺蕩っていたのです。
私の「躊躇」は隠しようがない。次の「一歩」がどうしても踏み出せない。その「闇夜」に身を投じると、黒光りする「鏡面」に揺らぐ「大聖堂」が壊れてしまう。私が「譲歩」しても、眩暈のような「思考」は「背後」に迫って来る。私の「実存」は、私の「選択」で決められようとしている。私は「自由」という「刑」に処せられようとしている。
サルトルは「聖ジュネ」において、ジュネというフィクションとポエジーを創り上げた。人間の「本質」はフェイクでも在り得るが、自らを「創造」するものに他ならない。すでに「賽」は投げられている。私とバローは「一歩」を踏み込むことにしたのです。すると「闇夜」は反転して、私の「意識」は奇妙に明るい「通路」に戻っていたのです。