夢博士の独白



木霊する言葉と意味の喪失、取り留めも無い意識と思考、真実の音源又は苦悩する精神

 耳の奥の不可視の「感触」に恐る恐る手が伸びる。耳の奥の不可侵の「蝸牛」がヌルヌルと足を延ばす。蜘蛛の巣のように張られた「鼓膜」が震えて視える。その薄くて繊細なる「境膜」を破ってはいけない。真実の「音源」は、その「境界」の向こうに在るに違いない。私は四つん這いになって、手探りで「洞窟」を匍匐前進したのです。
 ある種の「伽藍堂」と呼ぶべきか、さほど大きくはない「空間」が現われて、その曖昧で茫漠とした「輪郭」が肌身に感じられたのです。その「輪郭」としての「壁」に向かって、あの甘く切ない「言葉」が投げ掛けられる。一呼吸置いて、あの暗く切ない「不安」を伴って返されてくる。同音同意の「言葉」が木霊していたのです。
 私は「言葉」の発生能力を失っていた。私は「意味」の形成能力を喪っていた。他者の「言葉」を繰り返すことだけが許されている。気晴らしの歌とお喋りはもう止めにしよう。さもなくば、悲しみの余りに「言葉」を失い、干乾びた「声」だけが残ってしまう。私は深い自己嫌悪に陥りました。一刻でも早く、一刻でも速く、この独りでに打ち震える「鼓膜」の向こう側に抜け出したかったのです。
 瞬間にではあるが、森の奥の「洞窟」から耳の奥の「洞窟」へと移動していることに気付く。それは「意識」の為せる業でした。勝手にではあるが、それは「夢」に与えられた「特権」だと解釈していることに気付く。それは「思考」の為せる業でした。目まぐるしく流転するのは「意識」なのだろうか、取り留めも無いのは「思考」なのだろうか。通り抜けた先には、美しい「庭園」が拡がっていると聞く。私は再びアリスの「寓話」に迷い込んだのです。
 「夢」の暗がりの中の黄金の昼下がり、一匹の「蝿」が蜘蛛の巣の上でもがき苦しんでいました。それは、あたかも「鼓膜」に捕らえられた「音」のようにして、無数の小さな「振動」に耐えていたのです。赤裸々に自分自身を引き裂いていたのです。その「姿」は、「苦悩」以外の何事にも喩えようがなかったのです。
 螺旋階段の途中の「踊場」には大きな「鏡」が架けられていました。死を前にした「蝿」が生を前にした「蜘蛛」を誘惑した「言葉」とは何だったのだろうか。無言の「鏡」は、その「言葉」を写したに違いないが、その「意味」するところは永遠の「謎」に包まれている。全てが「煙」に巻かれている。「鏡」は割れてしまったと言う。その「割目」を通して、苦しみの「秘儀」が始まると言う。「言葉」を巧みに操る「白兎」が、蜘蛛の巣の下を易々と潜り抜けるのが視えたのです。
 確かに、この「洞窟」を抜け出た「世界」の醜悪さも想像に難くはなかったのです。あの親密さもとうの昔に断ち切られています。だからこそ、真実の「音源」はダイヤのように輝いているはずでした。それは抽象的で、「肉体」を超越しているはずでした。
 回転するレコード盤に鋭利な「針」が落とされる。空気の「振動」が不意に始まる。やがて「空間」の隅々にまで浸透する。私の「鼓膜」は、その純粋で媚も憐みもない「音」を捉えるのです。その「音」の背後には、精神的な「苦悩」は在るが、肉体的な「苦痛」は無い。その「音源」は永遠に届かない「彼方」に存在している。
 アノニマス、その「言葉」には不吉で邪悪なイメージが付き纏わっていたのです。それは、遠くに視えた黒い「人影」のようにして現れるのです。それは、私の「内部」に視覚と聴覚を通して、私の「外部」の「世界」を齎した無名性の「他者」でした。
 私の「内部」を覗き込んで観よう。公平中立なる「観察者」に徹して見よう。そこには、複数の「音源」からなる複数のアイデンティティが存在している。私のオリジナリティなど存在しないかのようだ。そこには、同情と憐憫の「感情」は無い。虐げられ、辱められ、傷付いた者達の「精神」が在る。この「洞窟」から抜け出ることはできない。この生きる「苦悩」を、私の「外部」に追い遣ることはできない。
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# by artbears | 2016-09-30 19:22 | 連白

真実の映画又は一夜の夢、馬耳東風の男と狂気乱舞の女、落下する水源又は真実の音源

 真実の「映画」を観に行こうと誰かに耳打ちされる。せめて一夜の「夢」を見たかったのです。その甘く切ない「言葉」が、耳の奥の「洞窟」に木霊していたのです。泥のような「暗闇」に足を踏み入れる。ちっぽけな「天窓」さえ一つも無い。まるで岬の先端の「灯台」のようにして、渇望の「焦点」が遠くに視えたのです。
 「両耳」のちょうど中間の少し右寄り辺りだろうか、その「洞窟」には、まるでナルシスの危うい「面影」のようにして、透明の「水源」が揺蕩っていたのです。私は凝視する。その「水源」に寄り添うようにして、白い「水仙」が咲いていたのです。暖かい「春風」が吹き抜けて行く。温かい「東風」が追い掛けて行く。私は仰視する。その「水仙」に寄り従うようにして、白い馬の「耳」をした「男」が立っていたのです。
 「時刻」は九時半を回ろうとしていると、その「男」は言いたげな素振りを見せました。彼は「時間」が経つのを見計らい、時折、その真っ白な「歯」を見せて笑うのです。それは、時計仕掛けの「笑顔」のようでした。全てが見透かされているという「懸念」が、放たれたスローモーションの「弾丸」となって、私の「脳裏」を通り抜けたのです。
 もう一度「時間」を確かめようと、私は腕時計を覗き込みました。すると「時刻」は七時半に逆戻りしている。腕時計の「秒針」が狂ったように逆走している。その「秒針」を臆病で小心者の「白兎」が追い掛けている。「時間」は残されては無いが、真実の「映画」には間に合うかもしれない。
 私は「我」を忘れて「夢中」を走りました。もともと「我」など無いことを忘れて、「洞窟」を迷走したのです。「真夜」の映画館は閉じていましたが、「真昼」の帽子屋は開いていました。そもそも帽子屋は狂っていると耳打ちしたのは誰なのか。私は懐疑する。私を疑惑する。その「白兎」のような形振りを見て、気違い「帽子」が笑うに違いない。事実、その真っ白な「歯」が、すでに文字盤の奥の「暗闇」に視えていたのです。
 真実の「映画」は永遠に上映されないのかもしれない。その「証拠」として、「真夜」の映画館は閉じられていたではないか。その暗く切ない「不安」が、目の奥の「洞窟」に投影していたのです。虚偽の「映画」が上映されていたのです。寒々と「秋風」が駆け抜けて行く。軽々と「北風」が追い越して行く。気違い「帽子」は笑い転げて、白い「水仙」は勿体ぶった様子で微笑んでいる。白い馬の「耳」をした「男」は、相も変わらず、何も聞こえない素振りを決め込んでいたのです。
 透明の「水源」の近辺では、鮮やかな色彩の「蝶」が狂ったように乱舞すると耳打ちしたのは、年老いた「盲目」の予言者でした。真実を視ることなかれ、知ることなかれ。然れば、汝は生き永らえるであろう。彼女の目の奥では、美しくも毒々しい無数の「蛾」が舞っていたに違いない。私の目の奥では、真実の「蝶」が舞っている。虚偽の「蛾」が舞っている。私は混乱する。私を消失する。兎にも角にも、この目の奥の「洞窟」から一目散に逃げなくてはならない。 
 虚偽の「映画」を観に行こうと誰もが耳打ちされる。せめて毎夜の「悪夢」から逃れたかったのです。いくつかの穏やかな「海」を回航して、いくつもの見知らぬ「街」を後にする。いくつかの緩やかな「山」を展望して、いくつもの神秘的な「森」を前にする。私は躊躇する。私を叱咤する。思い切って、深く鬱蒼とした「森林」に分け入って行くと、極彩色の「両翅」を光り輝かせる無数の「蝶」が、黄金色の「鱗粉」を撒き散らしながら、飛び交っていたのです。私は、その圧倒的な狂気の「光景」に「我」を忘れたのです。
 私は再び「我」に帰る。その「我」は食虫植物の「罠」を想い浮かべる。それでも、森の奥の「洞窟」に逃げ込むしかなかったのだろうか。湿った黴臭い「空気」が、私の「肺胞」の末端まで侵攻してくる。小さな「戦闘」の屍が堆積して、大きな「敗戦」の陰鬱な「気配」に息が詰まる。真っ暗闇の「洞窟」を歩き続けるしかない。すると真実の「音源」が、あの透明の「水源」が落下する「滝」となって、私の耳の奥に聴こえ始めたのです。
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# by artbears | 2016-08-31 20:31 | 連白

二枚の絵画の距離又は時間、歴史の終焉と出現した位相、過酷なる現実と衰弱する理想

 全体としての「左脚」の部分としての「左足」の先には、赤黒く「鬱血」を残した「中指」が、いつもの無表情な控え目さを取り戻していたのです。「中指」がピクッと頷く。それは生き物のように動いて、もう石のようには固くない。柔らかい優しい修復と回復の「時間」が経過したことを報せていたのです。
 一刻が一刻の上に加算されて、何かの拍子で一気に破算になる。「意識」の方向転換が、それを決めている。そして再び、何かが終わるために何かが始まろうとしている。「瞬間」は、次の「瞬間」のために生まれている。その巻戻しと先送りの加減算、その永遠の繰り返しが続いていたのです。そして突然、時の流れの「中間」が消えて、事の流れの「発端」と「結末」とが一体となって、私の目の奥に現われて来たのです。
 「発端」としてのプサンと「結末」としてのセザンヌ、二枚の「絵画」が、私の「視界」の両端に並んで視えたのです。その「距離」を測る。その「時間」を計る。両者の間には、一方向へと展開する「時間」の経緯が認められました。「秩序」と「構造」に対する「思考」の進化と深化が観て取れたのです。そこには、統合化されて表れる全体と、それを構成する部分との「関係」という、西欧絵画の「伝統」が脈々と流れていたのです。
 全体としての「絵画」の部分としての「表現」の先には、西欧近代絵画の「伝統」からの「離脱」という、米国現代美術の「目的」が見えて来ました。先ずは、イメージが「絵画」から追放されて、全体と部分との「関係」が解体される。次には、「物質」と「精神」が混然と融合して、強く激しい「情動」が表面を覆う。やがて「精神」の強度が「物質」を乗り越えて、カタルシスを迎える。その先には、殺伐とした都市の「光景」が、現実の物質世界の「地平」が拡がっていたのです。「時間」の連鎖は断たれて、「瞬間」が「絵画」に閉じ込められる。「絵画」の終焉が近付いていたのです。「歴史」が終わりを告げて、新たな「位相」が生まれようとしていたのです。
 ポロックを分岐点として、「現代」の芸術表現が「近代」とは異なる「位相」の上に成立していることは間違いない。その「位相」に逸早く移行したジャッドは、あらゆる「記憶」の喚起からも、いかなる「価値」の束縛からも自由でいて、一瞬にして全てを理解できる特別な「事物」を創造したのです。それは「記号」ではないし、単なる「物質」でもない。「精神」は「概念」に置き換えられて、特別な「事物」と純粋な「概念」との関係性の内側で、外側の「世界」を捉え直そうとしたのです。
 テキサスの広大な「平原」に巨大な三次元の「箱」が置き去りにされている。私は「夢」の中で、何枚かの「写真」を捲るようして、その「光景」を目撃したことを「告白」しなければならない。吹き抜ける「風」が知らせたのは、建設途中の都市空間の「断片」のような「気配」でした。否、建設は「放棄」されていたのかもしれない。
 コンクリートで固めた「箱」が棺桶のように見えてくる。都市文明の「死臭」が漂ってくる。私の「視線」は冷たく跳ね返される。ジャッドの抱いた合理性と効率性の「象徴」としての「都市」のイメージは、今や「幻影」となって蜃気楼のように揺れていたのです。その「思考」は、未だに「幻想」となって「近代」に「残留」していたのです。
 米国の途轍もなく巨大な「時空間」と途方もなく膨大な「情報量」が、人間存在を相対的に矮小化している。自分が何者で在るのかという「概念」を、心の「地図」に描けない。自分と他者との「関係」を、どう構築するのかという「指針」が持てない。そうした個人的な「情況」が、政治的な「情動」と結び付いて、リアルな力として肥大化している。
 米国の理想主義と現実主義が共存して、その均衡点を模索し続けてきた「空間」が、急速に収縮しているのです。過酷なる「現実」が脆弱なる「理想」を萎えさせて、その訴求力と求心力を衰えさせているのです。「理想」こそが、行動を促して来た。その実現こそが、「現実」を変えて来た。「現実」の裏付けのない「理想」が、一夜の「夢」となって消えようとしているのです。
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# by artbears | 2016-07-31 17:46 | 連白

消えていく欧州の良識と幻想、反復する夢の奥に眠る記憶、崩壊する壁と守るべき精神

 赤い薔薇の「花」を胸ポケットに忍ばせた「男」は英国紳士然としていたのですが、彼の差しかざすフォックスの黒い蝙蝠傘とは、どことなく不釣り合いな歩き方をしていたのです。それは、一歩進んで二歩退がる、三歩進んで二歩退がる、「前進」とは言えないが、「後退」とも言えない。足踏みとは呼べないが、二の足を二度も踏んでいる。それは、自らの「影」を踏むことを極度に恐れていたのです。
 弱々しい「太陽」の「光線」が、それでも落下傘のように降りて来て、行き場を失った「影」が右往左往している。雨でもないのに蝙蝠傘は開かれて、遣り場を失った「影」が三々五々と集まっている。そもそも英国の「離脱」か「残留」かの選択は、気紛れなサイコロの「意志」に委ねられていたのです。欧州の市民社会の「良識」が急速に消えていく。EUの「幻想」が同時に消えていく。下部構造の「断層」が上部構造の「亀裂」を招いている。起こるはずのなかった「事態」が、事もなくあっさりと起こり始めたのです。国境の無い欧州の「夢」が終わり始めたのです。
 時として、紅く血に染まった「石畳」が本来の「色彩」に戻ったのは、白い麻のスーツに身を包んだいかにも英国紳士然とした「男」が、遠くから近付いて来るのが視えたからかもしれない。彼の足取りは、まるで小高い「丘陵」に吹く「微風」のようにして、山深い「渓流」に澄む「清水」のようにして、優しく軽やかに流れるようでした。
 時として、「記憶」が「夢」を引き寄せることがある。逆に「夢」が「記憶」を呼び覚ますことがある。過ぎ去った「時間」の絶えざる流れではなく、途切れ跡切れの「瞬間」が目の奥に浮んで来ることがある。それは、手の平から零れ落ちる「清流」の一滴一々の如く、その「純水」の最初にして最後の驚きと輝きをもって訪れる。
 小さなハリネズミが、大きな「毬栗」のようになって、舗装された「道路」の真ん中で真ん丸くなっていたのです。薄っすらと開いた「目蓋」からは、透明な「世界」が「純水」となって触れて見えたのです。彼は決して自尊心と虚栄心の「動物」ではない。彼は「恐怖」の「感情」の固まりとなって、自らを守る「鎧兜」となっていたのです。
 白いスーツの「男」が上着を脱ぎながら、足早に近付いて来るのが視えました。赤いスカーフを首に巻いた「女」が遠くで振り向いたのです。彼女の薔薇色の「唇」が動いて、誰かに何かを叫んでいる。それでもハリネズミは動く素振りを見せない。大型トラックが「石畳」を越境して「道路」に侵入しようとしていたのです。
 私はかつて目撃した。その「光景」が、「夢」のなかで再現されたことの不思議を想ったのです。黒い蝙蝠傘が白い落下傘に変わる。浮遊感とともに舞い降りてくる。白くて柔らかい上着が硬直したハリネズミの「身体」を優しく包み込んだのです。「毬栗」は自然に戻されて、やがて自らを開いて、新たな「一歩」を踏み出したのです。清々しい「小川」の絶えざる流れが、自然の永遠のリズムとハーモニーを奏でていました。遠い遠い「夢」の奥の奥に眠る「記憶」から、欧州の「良心」を垣間見た想いが蘇って来たのです。
 反復される「夢」、変質される「夢」、その度に確実に齢を重ねる「私」、全く同じ「夢」が繰り返されることはない。そこには、「記憶」の経験と蓄積と創造が関わっているに違いない。「夢」の中の「空間」は神出鬼没に現れては消えていくが、「夢」の中の「時間」にはどこか連続性が在るように思えてならない。「夢想」が与える「恐怖」のシナリオが現実化しようとしている。主は与え、主は奪おうとしている。
 わずかな「偶然」が「世界」を変えようとしているのかもしれない。それが、「歴史」の「意志」なのかもしれない。東方に向かって拡大するマルク経済圏、北方に向かって流入する異教徒移民、内部から湧き起こる排外的民族主義、欧州の理想主義と規範主義が創り上げたシステムの「崩壊」が始まったのです。英国の「離脱」なのか、それとも「脱出」なのかも判らない。新たな高い「壁」を築かなくてはいけないのだろうか。その内側で、果たして欧州の「精神」が守られるのだろうか。
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# by artbears | 2016-06-30 18:57 | 連白

固体となった記憶の夢、不在となった現在の私、黒いスフィンクスの死を告げる雨と影

 しばらくして「瞳孔」が開いてきたのだろうか、私の叫び声が「意識」の「扉」を開いたのだろうか、ようやく明るさに反応しようとする「感覚」が蘇って来たのです。明るく内省的な私が、暗くて内省的な「私」と入れ替わる。「両者」は離れていく。忘却のシステムが作動を開始したのです。それに連れて、あの「声」は引潮のようにして、遠い哀愁の「彼岸」から聞えてくるようになる。「死」は静かで小さな「声」となる。
 微睡みのなかでは、「夢」の続きが用意されて「事」が起きる。その「事」のなかでは、おぼろげな「文脈」とおぼつかない「人脈」が絡み合って「時」が過ぎる。その「時」のなかでは、厳かで堂々とした「黒鷲」の大きく拡げた「両翼」のようにして、曖昧で秘密めいた「記憶」が積層した太古の「地層」のようにして、私の「夢」が映し出されていたのです。私の「影」が黒い炎のように動いている。私の「身体」から離れないように燃えている。「私」の不在は明らかでした。
 それは、ゴシック様式の「大聖堂」のステンドグラスの「壁」のようにも見えました。下方から上方に向かって「視線」は彷徨いながらも「上昇」するように構成されていたのです。「過去」から「現在」へと繋がる「情景」が一つひとつの「枠組」のなかに嵌め込まれていて、下方の「枠組」の固定化と上方の「枠組」の流動化が進行していたのです。最上層を見上げると、私の「影」が赤い炎のように燃えている。私の「身体」から離れるように動いている。「現在」の不在は明らかでした。
 「記憶」のステンドグラスが起ち現われて来たのです。遠い「過去」は硬い「石垣」のように固まっている。そこでは「時間」は停止している。少なくとも「瞬間」のなかに断片化している。それらの「記憶」が固体化されることによって、「時間」を超越したイメージが発ち現れていたのです。
 しばらくして「瞳孔」が閉じてきたのだろうか、私の呻き声が「意識」の「扉」を閉じたのだろうか、再び目の奥の「暗闇」に順応しようとする「感覚」が戻って来たのです。暗くて何処までも続く「廊下」が視えて来ました。「死」が再び、あの「声」となって聞こえて来たのです。「次、次の死体」と聞こえて来たのです。
 慎み深く四枚の「扉」が、しかも同時に開くとは想ってもいない「事」でした。「廊下」の暗がりのなかで、四人の「影」が、一瞬のゲームのように素早く、白い炎のように輝き始めたのです。それは、白塗りの「道化師」の弱くて自虐的な「嘲笑」と強くて絶望的な「虚勢」のようにも見えました。一人目が、デヴィッドの「死」であったことは間違いなかったのです。
 二番目の「部屋」に入ると、人気の無い「舞台」のスポットライトはすでに消えていて、黒いドレスを着た一人の「女」が佇んでいたのです。その「姿」は、まるで黒いスフィンクスのように不思議な雰囲気に満ちていました。「舞台」に「雨」が静かに降っている。それは、彼女の吐く「呼吸」のように冷たく細かく柔らかい。
 ナントに「雨」が降る。深い「夢」の寒い「暗闇」に降っている。すると突然、スポットライトが燈されて、四人の「男」が同時に立ち上がったのです。寒々とした「舞台」には、主人を失った一つの「椅子」が遺されていたのです。「黒鷲」は飛ぶ鳥となり、「黒馬」は立ち馬となる。それは、想ってもいなかった「時」でした。
 見知らぬ四人の「影」が次々と「私」を通り抜けていく。彼等は何も問わない、何も語らない。ただ彼等を視ただけで、彼女がすでに逝ってしまったことが判ったのです。二人目が、バルバラの「死」であったことは間違いなかったのです。
 真っ赤な薔薇の「花」が、真っ青な「海」へと続く「石畳」を真っ赤に染めている。私の「瞳孔」は完全に開いて、深紅に染まった「眼球」が忙しく動いている。目の奥に真紅の薔薇の「華」が視える。私の「記憶」のなかで咲いている。散ることを忘れて咲いている。ナントに「雨」が降っている。
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# by artbears | 2016-05-30 20:36 | 連白

連鎖する時間と絵画の構造、楽園又は現実となった死、入口である出口に立ち竦む裸体

 超越的な「存在」、そのように「記憶」のなかで観える「高山」も、やはり「夢」のなかの「教会」のように垂直に起立していたのです。それは、西欧の建築的な「原理」に基づいているのかもしれない。「過去」から「未来」へと連鎖する「時間」は、「現在」という仮初めの「箱」に一旦取り込まれている。どこまでも奥行きの在る三次元の「空間」に閉じ込められている。そして、ある時に忽然として連続性が断たれて、その時に毅然として垂直性が建ち上がる。瞬時にして「全体像」は把握される。それは、西欧の絵画的な「構造」に基づいているのかもしれない。
 私は歩くことは厭わなかった。走ることですら、さしたる「苦痛」ではなかった。しかし、後方を向いて「前方」に歩くことはできても、前方を向いて「後方」に走ることはできない。そう、私は「川」を挟んだ「堤防」を「下流」に移動していたのです。想定外に水嵩を増す「水流」に「不安」を覚えながらも、瞬きもしない間に訪れる「未来」が、想定内に収まることは祈るしかなかったのです。
 まるで「絵巻物」のようにして、「川」は一方向に緩やかに流れて来たのです。ゆっくりと「時間」と寄り添うようにして、「物語」は語り継がれて来たのです。そして、明らかに「現在」は「過去」と線的に連鎖していた。「絵巻物」はさらに巻き解かれて、人々の「記憶」のさらなる蓄積を促した。人々は「梅園」に集い「桜園」に酔い痴れて、そして「現在」の延長線上の「未来」を想い描いて来たのです。その先には、「楽園」としての「死」が想い描かれていたのかもしれない。
 プッサンの「絵画」が、私の目の奥に浮んで来たのです。豊かな「理想郷」に忽然と建ち現われる「墓標」、三人の「牧人」と毅然と立ち振る舞う一人の「恋人」、「生」と「死」が対比されて、「過去」と「未来」との対話が始まる。「過去」と「現在」と「未来」が一つに合体して、その「構造」が示される。「永遠」のイメージが起ち上がって来たのです。「私」はアルカディアにいたのです。そして「死」も「理想郷」にいるのです。「死」は片時も忘れることのできない「現実」となったのです。
 両側の「堤防」を無数の人々が歩いていました。一人として「上流」に引き返せる「人間」を見付けることはできない。何と従順な、それは、まるで飼い慣らされた「牧羊」の群れのように見えたのです。そして、「川巾」は次第に狭くなっていく。「水流」は次第に激しくなっていく。その先には、真っ暗闇のトンネルの「入口」が、一方向に空いた真円の「出口」が待っているのが視える。「瀑布」となって落下するであろう「死」、それに立ち向かう「覚悟」が問われていたのです。
 ほとばしる「液体」、それは「汗」と呼ぶよりも、「身体」に付着したゼリーのようでした。「次、次の人体」、その「声」は、胸の悪くなるような「悪臭」を放っていたのです。無数の人々が無言の「行列」に繋がって、裸となった「私」の前後には、血の気の失せた青白い「裸体」が並んでいたのです。「次、次の裸体」、その「声」は、「砂漠」のように白く乾いて、「深海」のように黒く虚しい。私は「人体」なのか「裸体」なのか、私は叫び声を上げる。それでも目覚めない時には、その「声」に従うしかない。
 恐らく、誰にも理解してもらえない、いや誰もが理解したくない「現実」が、私の「夢」のなかにも「存在」しているのです。この「行列」から抜け出ることができるなら、何でもできる。私の「悲鳴」は、私の「夢」のなかの「私」にしか聞こえない。
 私は並ぶ、私は叫ぶ、私は乞う、その「苦悩」は、夜毎に「私」を強い眼差しで見詰める「彼等」の「視線」のなかにも映えている。すでに「裸体」となった「私」は、これから「死体」となる「私」と手を握り合うしかないのだろうか。そして「裸体」に残る「体温」が、冷たい「死体」を温められる「時間」は、どれほど残されているのだろうか。それでも目覚めない時には、あの「声」に従うしかないのだろうか。
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# by artbears | 2016-04-29 14:01 | 連白

盲目の扉又は聖書の真実、地球に堕ちたロックスター、超越的存在と英訳された私の死

 私の「左眼」に薄くて透明なフィルムが貼られる。私の「眼球」を正しく切り開くための「被膜」が張られる。それは、事前ではあるが、一方的に告げられた「手順」でした。拒むことのできない小さな「死」への「入口」が視えてくる。引き返すことのできない「扉」の向こうには、「聖書」を読むまでもない「真実」が待ち構えている「予感」がしたのです。
 デヴィッドの「左眼」は純血の緑色だったのだろうか、それとも灰色の「銀狼」との混血だったのだろうか、何れにしても正常な「右眼」とのバランスを失っていたのは確かでした。「都市」を彷徨う老いた「銀狼」は、初めから「死」を見詰めていたのです。視えない盲目の「扉」が迫ってくる。「手品師」の滑るような「指先」が、鋭利な「刃物」を操っている。その金属の冷たく人工的な「閃光」が、私の「記憶」を呼び覚ましたのです。
 デヴィッドは地球人であるボウイを殺すことによって、異星人であるジギーに生まれ変わった。「観者」からしか視えない「偽者」のジギーを演じることによって、「本者」のジギーに成り切ることができた。そして、多くのロックスターの忘却という「死」を目撃したデヴィッドは、今度はジギーを殺すことによって、まるでイエスのように「他者」の「記憶」に生きることを選んだに違いない。
 ジギーとしての最後のコンサートでも、やはりブレルの「私の死」はインターバルの前に歌われていた。私の「記憶」の中でも、多くの「認識」の「紐」が次々と繋がって行ったのです。この「世界」は「認識」の数だけ「解釈」が成り立つのかもしれない。確か、スコットの最初のアルバムでも、「私の死」はA面の最後に歌われていた。二人の英訳された「歌詞」には違いはあるが、「死」は仏語本来の抽象名詞や女性名詞ではなくて、擬人化された男性名詞として扱われていた。私の「記憶」が浮かんで来たのです。「私の死」が、私の目の奥で歩き始めたのです。
 真新しい「墓標」が視えて来ました。その眩しさ、その厳かさに老い衰えた「放蕩者」は、思わず「顔色」を曇らせたのです。私は「口笛」を吹くが、どんなに強がっても、過ぎ去った「時間」には届かない。黒い砂漠の「流砂」には聞こえない。その先の「死」が、真夜中に現れる「魔女」のように待っているのです。
 朽果てた「墓石」が視えて来ました。その周りには、漆黒の「影」が蹲っていたのです。それらの「影」が、申し合わせたようにして散らばっていく。献花された「花束」、咲き乱れた「花園」、生い茂った「草花」、それらの至るところに隠れて、「死」は忍び寄っているのです。あの「手品師」の大きく開いた袖口から、「白兎」と「黒犬」が走り去るのが視えました。盲目の「扉」は予告なしに開かれるのです。
 ブレルの「歌詞」が繰り返して続く。例え「扉」の向こうに何が待ち受けていようが、敢えてすることは何もない。それが「天使」であろうが「悪魔」であろうが、私の知ったことではない。確かなのは、その「扉」の前には、いつも「貴女」がいて、その冷たい「指先」が、いつか私の「両眼」を閉じることなのです。私の目の奥では、忘却の「帆船」が白い「航跡」を描いている。それは、不可逆的な「過去」を引き摺りながら曳航している。
 スコットは、アイドルと見做されることを「拒絶」することで、自らの「人格」を創り上げた。一方、デヴィッドは、自らのイメージを創り変えることで、ロックスターとしての「延命」を計り、その商業主義と芸術性の折り合いを付けることに成功した。彼等は、自らの絶頂期に自らを葬り去ることによって、いかにして「死」を迎え入れるのか、いかにして「生」を終わらせるのかを、常に「意識」していたのです。
 いくつかの「墓地」を通り過ぎて行く。すると、遥か「彼方」に「高山」が観えて来たのです。超越的な「存在」が、この世からの「孤高」が見えて来たのです。デヴィッドの「訃報」が届きました。私は、あの「頂上」に在って、この世を見下ろすことの「孤独」と「恐怖」を想ったのです。そして、遥か「彼方」に超越的な「存在」が視えたからこそ、救われたことを思ったのです。
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# by artbears | 2016-03-29 20:55 | 連白

赤く起立する教会と旋回する光輪、巨大な氷山と夢想の大海、病室から視えた六月の月

 私の「記憶」が正しければ、開け放たれた「窓」は二つであって、そこから観える「空」は一つであって、それは、私の「心」を映し出したものでした。解き放たれた「白鳩」は十二羽であって、それらは、「対岸」に視える真っ赤な「尖塔」の周りを、真っ白な「光輪」となって旋回し始めるのです。やがて、左の「窓」は閉じられても、慈愛に満ちた「春光」は、右の「窓」から優しく射し込んでいたのです。
 私の「記憶」が正しければ、その「光景」は「夢」の中での出来事でした。それ故、それが「夢想」であったとの「判断」も容易に下せたのです。儚く移ろいやすい「記憶」は、巨大な「氷山」の一角となって、「夢」の「大海」を漂流している。その「大海」から突き出た小さな小さな「尖塔」に辛うじて生息している。
 「対岸」は「島影」よりは明瞭に見えたのですが、ジッと目を凝らして視ると、水平線が「波浪」のように上下に揺れていたのです。私は平衡感覚を失ったのだろうか。強い船酔いのような「不安」が増大する。「眼球」の裏側に注射針が撃たれる。楽観的な「夢想」が悲観的な「幻想」へと脱皮しようとしている。この「幻想」が、赤く聳え立つ「尖塔」への「幻視」を欲したに違いない。ところが、その垂直に起立していた「教会」すらも、大きく左右に揺らぎ始めたのです。
 このすっかり騙されてしまう「夢」の現実感は、何らかの「意図」があって現われてくるのだろうか。その「背景」には、どれほどの「意味」が隠されているのだろうか。それは、ポロックの「絵画」のようには「中心」を喪失していない。実は「背景」は見えていない。「意図」と「意味」は、その「中心」を視ることに在るのだろうか。そもそも、このリアルな「感覚」とは何なのだろうか。ポロックが無意識のうちに提起した「絵画」の「問題」は、「夢」の中にも存在していたのです。
 私の「夢」の続きは「対岸」から始まりました。人影の消え失せた「街角」を曲がると、「濃霧」は一層深まって、その「悪霊」のような「冷気」を吸い込んだ「私」は、目の前の茫洋とした「教会」が、あの巨大な「氷山」のように見えることに立ち竦んだのです。とにかく、この「幻想」の「幻視」への展開を止めなくてはいけない。ロバートの繊細で消え入りそうになる、それでいて、温かく誠実な人柄が偲ばれる「歌声」が聴こえて来たのは、まさに、その時の事でした。
 聳え立つ赤い「教会」、その「尖塔」は「濃霧」によって隠されている。その上の「雲海」が「濃霧」を圧し下げている。抑圧的な「教会」、その重厚な「扉」を開けて駆け込むと、地下への「階段」が「視界」に入ったのです。何の迷いもなく、「階段」を駆け下りた「私」は、地下室の木製の「扉」を開きました。そこには、車椅子のロバートが、愛用のピアノを前にして静かに座っていたのです。
 「階段」から転落して失った「自由」、その「制約」を受け入れたからこそ創れた「音楽」、そして、虚飾と詭弁を排したシンプルで力強い「言動」、それらは、彼の一貫した「音楽」の「社会」との関わりを意識した「思考」から導き出されている。それは、「社会」の「不実」に対する告発と変革を希求する、ロックの原初的な「精神」に根差したものでした。だからこそ、彼の「音楽」は中心性を失うことなく、リアリティーを持続している。「自由」の貴重さと困難さと危うさが、その「音楽」から聞えてくる。強靭で柔軟なカンタベリーの「大木」は、豊かな「果実」を実らせたのです。
 私の「左眼」の「手術」が間近に迫っていることが告げられました。車椅子に座っている「私」に気付く、奥の奥に在る「病室」に移動する。後方の「人影」が前方の「扉」を次々に開けて進む。左右の氷のような青白い「手」、その「冷気」が「私」を運ぶ。
 私の「夢想」が正しければ、「病室」には一つの「窓」がありました。そこから観える「夜空」には、美しい「六月の月」が視えたのです。何度も何度も視て、何度も何度も聴いた「記憶」が、蘇って来たのです。若々しいロバートの「歌声」が、リアルな「月夜」に響き渡ったのです。一羽の「白鳩」が舞い戻ったことが告げられたのです。
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# by artbears | 2016-02-29 20:38 | 連白

水面に映る魅惑と畏怖の感情、漆黒の暗闇からの脱出、蝋燭の炎と空に開け放たれた窓

 私の「意識」は「森林」から抜け出して、「坂道」を下り、でも、あの美しく澄んだ「湖面」のような「瞳」が忘れられなくて、何度も何度も振り返らざるを得なかったのです。それは、どことなく冷ややかで、近寄りがたく、遠くに感じるものでもありました。その美しさへの「魅惑」と厳しさへの「畏怖」、それらの相反する「感情」の「桎梏」から抜け出そうとしていたのです。
 あの時、「桎梏」は漆黒の「暗闇」となって、その「魔手」が足元に忍び寄っていた。私の「意識」は夢遊病者となって、鬱蒼とした「森林」の中を彷徨っていた。その「足跡」は消されているが、その「記憶」は身体に残されている。
 その時、木漏れ日が眩しく射して、私は薄明の「世界」に目覚めたのです。強烈な渇望感に立ち止まったのです。厳しく凍った「湖面」が観えて来ました。「水面」には無表情の「能面」が視えて来ました。存在すると思って凝視する、しかし、そこには何も無い、無明の「世界」が映っていたのです。
 この夢幻の「世界」から、何とかして抜け出さなければならない。その想いが深まれば深まるにつれて、漆黒の「暗闇」は底無しに思えたのです。ケビンの「音楽」との出会いは、そのような出口無しの「暗闇」での出来事だったのです。
 曖昧模糊な「地平」と広大無辺な「荒野」が拡がっていました。マレーシアの心地良い「微風」が吹き抜けていく。マジョルカ島の風光明媚な「島影」が観えてくる。玩具の「悦楽」とは何か、月に撃つ「弓矢」とは何か、バナナへの「偏愛」とは何か、そのどこかユーモラスで諧謔性に富み、茶目っ気たっぷりのボヘミアンが創り出す「音楽」は、荒れ果てた「原野」を実り豊かな「田園」に変えて魅せたのです。暗くて陰鬱な「世界」は、青く晴れた「空」に開かれて、いきいきと「生気」を取り戻していったのです。
 こんもりとしたなだらかな「丘」が視えて来ました。その「丘」で、一個の「小包」が手渡されることになっていた、と囁く低音の「声」が、「耳」の奥から聞えて来たのです。「小包」は時限爆弾のように開かれて、その中には、おとぎの国の小さな「城」が丁寧に包まれていました。それは、「夢」の中でしか起り得ない、摩訶不思議な「体験」のように思われたのです。そして驚くことには、二頭の雄雌の「鹿」が、私の左右に寄り添うようにして、「小包」の内部を興味深く覗き込んでいたのです。
 「城」が巨大化されたのか、「私」が相対化されたのか、それは知るすべがない。そうこうしていると、「城」への「入口」である、跳ね橋がゆっくりと下ろされたのです。その一部始終を、我々は、息を呑んで見守っていました。我々が、誰かに招き入れられていることは確かだったのです。あの低く太い「声」が再び、「水」の底から聞えて来たのです。
 螺旋状の「階段」は、まるで「天」に駆け登る「竜」となって、回転しながら「尖塔」を目指していました。蝋燭の「炎」が「階段」を照らし出している。「壁」には、「夜」の舞踏家の「影」が踊っている。夢遊病者の「軍隊」の正確無比な「靴音」が聞えてくる。やがて、独りぼっちの「私」に気付く、そして、漆黒の「暗闇」に取り囲まれていることを知る。「孤独」が「私」に追い着いて、追い越そうとしていたのです。
 「記憶」の中にある木製の「扉」は開いて、私を待っていました。私の「入室」が確かめられるや否や、ハンドルの無い「扉」は閉じられたのです。後方を振り返って、再び前方を振り向くと、「窓」は開け放たれていて、白いレースのカーテンが「風」に靡いていたのです。窓際には黒い「椅子」が在って、その上に置かれた蝋燭の「炎」が揺れていたのです。
 黒い「影」は白い「鳥」となって、「窓」から飛び立った、そのような「形跡」が残されていました。ベッドの上には、「少女」が包まっていた真新しいシーツが敷かれていて、そこには、彼女の「体温」が感じられたのです。私は、彼女が、あの漆黒の「暗闇」の「魔手」から逃れられたことを願わずにはいられなかったのです。
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# by artbears | 2016-01-30 18:35 | 連白

風に吹かれる言葉と存在の偶然性、半島又は島影と津波の記憶、湖水に群れを成す雌鹿

 白い「芥子」の「花弁」が風に吹かれていたのです。「目」の奥で白く散り始めたのです。それは、「花冠」を構成している「花葉」と呼ぶべきなのか、「萼片」と呼ぶべきなのか、それらの「言葉」が「花弁」となって、風に吹かれていたのです。
 私に「言葉」が無ければ、「言葉」とイメージの「符合」が無ければ、その「存在」の曖昧さは捉えどころがない。永遠の「彼方」に取り残されている。それは、「夢」の中をヒラヒラと飛び交う、名前も呼名も知らない、白い紙切れのような「蝶」と何ら変わらなかったのです。「存在」は、何時も掴み取れない、何時も擦り抜けている。「夢想」のようにフワフワと浮かんでいて、「真実」の重みから「自由」でいる。
 鬱を患った「森林」、疲れ果てた「坂道」、熱を帯びた「悪夢」、それらを通過する「儀式」が終わりを告げるのは、この「半島」の「頂上」での出来事のはずでした。そのことが、「友人」からのメールには仄めかされていたのです。ところが、いくら周りを見回しても、「友人」の「面影」は見当たらない。白々しい「空虚」だけが待っていたのです。
 そもそも「友人」とは誰だったのだろうか。その「顔」がどうしても想い浮かばない。それは、「自我」を確立するための「他者」だったのだろうか。私は、その「顔」を一心に想い描きました。すると、私の「心」が二つに分かれて、その「割目」からのっぺらぼうの白い「顔」が覗いたのです。とどのつまりは何時まで経っても、私は真の「自己」には出会えない、出会い損なっていたのです。
 「牡鹿」は群れを成して「半島」を目指していた。その「幻影」が再び蘇って来たのです。「傍観」せざるを得なかった私は、陸地を迂回する「選択」をして、この「半島」に辿り着いたに違いない。その「記憶」が再び甦って来たのです。「幻影」と「記憶」が合成されて、「島影」が再び「目」の奥に現われようとしていたのです。
 「島影」を視てはならない。その「幻影」が、あの大津波の「記憶」に呑み込まれなくなるには、どれだけの「時間」が経てばいいのだろうか。どれほどの「道程」を歩めばいいのだろうか。ディランの「歌詞」が聞えてきたのです。答えは「風」に吹かれている。答えは「風」の中に舞っている。「事物」の本質は偶然性に在る。彼の「言葉」は、まるで「存在」の「定義」と同じように、あまりにも曖昧で捉えどころがなかったのです。
 「風」が再び吹き、何かが壊れてしまったことを告げていました。一枚の白い紙切れがクルクルと舞い降りてくる。何かが書かれているようだが、誰も拾って読もうとはしない。そして、自ら「風」に吹かれようとしている。茫然自失としていた「私」は、それに気付いて、それを掴み取ろうとしたのです。その「瞬間」、一枚の白い紙切れは、まるで一匹の「蝶」のようにして舞い上がる。居心地の悪い「意識」だけが取り残される。
 気が付くと、私の「意識」は転がる「小石」の「内側」に閉じ込められていたのです。「小石」は「坂道」を転がり落ちる。「外側」の「世界」が丸く観える。魚眼レンズから覗いたように円く視える。クルクルと「回転」のスピードが速まる。やがて、円形の外枠の「内側」に黒い「眼球」が並び始めたのです。透き通った「泉」のように純粋で、穢れを知らない「瞳」が回り始めたのです。
  「雌鹿」は群れを成して「湖面」を取り囲んでいた。「水」を飲みながら「風」を読んでいたに違いない。波ひとつ起たない「湖面」は美しく打ち震えていたに違いない。私の「意識」は、その「静寂」を打ち破るように浮上したのかもしれない。その「水音」に「雌鹿」の「耳」がいっせいに反応したのです。聞き「耳」が南の「方角」に向けられたのです。
 何頭かの「牡鹿」が「海峡」を渡り終えた報せが届いたのかもしれない。彼女たちの「耳」は、「世界」の悲痛で悲惨な「物音」に向けられていたのです。多くの「難民」が「国境」を越えようとしている。北イタリアの都市国家の「光景」が、揺れ瞬く「瞳」の奥の奥に映し出されていたのです。
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# by artbears | 2015-12-31 17:08 | 連白


ソフトマシーン・やわらかいきかいのひとりごとです
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