「ほっ」と。キャンペーン

夢博士の独白



美術館の地下には、美しい葉脈の地図の上に虎たちの足跡が残されていた。

フォークを落としてしまったことは、どうやらギャルソンには気付かれなかったようでした。ギャルソンは鋭い目つきで、全ての食事が何事も無く進行していることを、まるで誇り高き指揮者のような表情で見守っているのです。それに美術館に併設しているこのレストランの椅子は、どうも座りにくくて、その堅さが脊髄を経由して脳髄までに、赤と緑に交互に点滅するシグナルとなって送られてくるように設計されていたのです。その痛みは時々、ここがとても恐ろしい事件が起こる場所であることを告げ、その痛みは時々、ここがとても悲しい感情に溢れる場所であることを報せていたのです。私はテーブルの上に置いてある銀製のナイフの鋭利な刃先に、どうしようもなく魅了された素振りを見せながら、ギャルソンの定期的な監視の眼を盗んで、テーブルの下に在るはずのフォークに手を差し伸べたのでした。あなたの温かい手と触れ合ったのは、その時だったのです。安堵と安心の電流が私の指先から伝わり、私の恐怖と悲哀の感情で強張った心を、一瞬の内に血の通ったものにしてくれたのです。そしてテーブルクロスから覗く、あなたの穏やかな表情に見惚れながら、私は失われた銀製のフォークを探し求めることを強く心に決めたのでした。テーブルの下には、湿った土間に正方形の漆黒の穴が掘られており、階段の巾だけ小さくなったやはり正方形の暗闇が、美術館の地下に向かって降りているのです。私は両手を拡げて、階段の淵のところで体重を支えながら、ちょうど逆立ちをした曲芸師のような格好で、一段一々と飛び跳ねながら降りて行ったのです。最後のステップ台が私の体重を支えきれずに崩れるであろうことは、実は私には薄々判っていたことでもありました。しかしあなたの「恐れることは無い」というくちびるの動きが、私を勇敢な冒険者に変えてしまっていたのです。私の身体は黒い炭素の結晶で出来た階段の破片とともに、正に奈落の底を目指して墜落して行ったのでした。私の目に留まった最初の光景は、蓮の葉のような形をした濃い緑色の葉の表面に、水晶玉のような真球の水の塊があり、それらが音も無く零れ落ちながら、私の落下のスピードに合わせるようにして、私の犯した過去の罪悪をその内部に映し出していくというものでした。その背後には、健康的で逞しい太さをした黄緑色の植物の茎が何本も垂直に立っているのです。私が落下した場所は、最初に水晶玉のように見えた球体の上であり、幸いなことに、それは内部に羊水を湛えた透明な弾力のある卵だったのです。私の墜落をまるで合図にするかのようにして、いくつかの卵の殻が破れ、その中から黄色に黒の縦縞もみごとな虎たちが、一斉に躍り出て来たのでした。虎たちは隊列を組みながら、規則正しく、首を左右に振りながら、こちらに向かって歩いて来るのです。彼らの表情には、かつての見覚えのある人々の顔が忘却の彼方より現れては消え、そして懐かしさの感情を呼び覚ますという、記憶の発生装置が仕組まれていたようでした。やがて虎たちは三々五々と集まって来て、その尻尾でゆっくりとしたリズムを取りながら、私の発言を待つことを無言の内に要求したのでした。声を失った私は、大きく深呼吸をして、眼を閉じて、そして念ずるようにして、美術館のレストランのテーブルの上にあったはずのフォークのことを、そしてその在り処が記されているという伝説の美しい葉脈の地図のことを、脳裏の中に強く想い描こうとしたのです。
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# by artbears | 2007-01-29 20:46 | 未白

宇宙船の内部なのか、そして重要な会議はそこで開かれるというのだろうか。

薄暗い講堂のような板間の部屋には、黒くオイルの染み込んだ線路の枕木のような分厚い板が敷き詰められており、そのところどころに空いた穴からは、雲の流れていく光景が垣間見ることができました。さらに雲間から覗く地上の世界には、色とりどりのオモチャのような屋根が観えるのでした。オイルの臭いはと言うと、あの逞しい蒸気機関車のエンジン周りから滴り落ちるオイルのように、どこか懐かしく、労働の後の休息のひと時のような満足感を漂わせているのです。その廊下の右側には、階段教室に備えられている木製の固定式の椅子と机が並び、それらは段々と下方に降りていくかたちで、古ぼけた緞帳の下がった舞台と想われる空間へと繋がっているのでした。舞台には演台が置かれ、その上には白い指揮棒が一本と何本かの黒い蜂の巣のようなマイクロフォンが設置されていました。廊下の真っすぐ前方には、木で縁取りされた金色の扉の枠があり、その枠内には、金色とのコントラストが美しい、輝くような水色の麗しい絵肌の絵画のような空が広がっているのでした。その水色の画面を切り裂くように、黒い切り絵のような人影が生まれ、次から次へと「参加者」の入場が始まったのです。その切り絵は、先端の鋭い黄色い嘴により破られ、やがて獰猛で非情な猛禽類のような目が現れ、そして宇宙服に身を固めた二足歩行の胴体が現れて来るという順番で、その姿が明らかになっていったのです。彼らは次々に座席について、会場はガヤガヤとしたざわめきに包まれた雰囲気に変わっていきました。私は彼らに遅れを取ることのないように座席を確保したのですが、周りの連中のあの鳥小屋の糞尿の混ざったような臭いには、どうしたら良いものかと想い悩み、思わずヘルメットにセットされているはずの酸素パイプに手を伸ばしたのです。ところが無いのです。その時、時を同じくして「ガクン」と歯車のギヤが入るような音がするとともに、階段教室は一段前方に傾いたのでした。そして、舞台の下の板の隙間からは、水が勢いよく噴き出して来るのです。だんだんと前方の座席から水中に水没するさまは、それはパニックを引き起こすに十分なほどの光景であったことを証言します。私はすぐに、この講堂の構造上の仕組みを解明することに全精力を傾けることに決めました。私の考察は次のようなものです。それは円筒状の宇宙船であり、その内部に中心軸があり、その軸を中心にして三角柱の回転する階段教室が三部屋あるというものです。そしてそれらの部屋には空の世界、水の世界、地の世界があるはずなのです。私の考察から導き出される結論は、私は空の世界から水の世界へと移行する階段教室に居るという事実なのです。いったい私は何の会議に参加する運命にあるのだと、天を仰ぎ見て嘆いても何の解決にもなりません。私は行動を起こすべきなのです。ところが、周りの連中の顔ときたら、鳥のような顔から魚のような顔へといつのまにか変化しており、その平静を装った表情からは、悪巧みすら窺い知ることが容易なのです。一方、空に通じる扉からは、次々と鷲のような表情をした連中が、意味不明の笑みを残しながら飛び去って行くのです、。私は階段教室の最上部まで駆け上がり、はたして意を決して水中に潜り、地の世界に通じる抜け道を探すのか、それとも羽根の無い我が身を省みず、空に通じる扉から決死のダイビングを試みるのかを思案したのです。しかし悲しいかな、私は水にどうしようもない恐怖心を覚える性癖の持ち主だったのです。
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# by artbears | 2006-12-29 21:32 | 未白

聖なる鹿は落ち葉と薄氷を踏み、そして桜咲く春への階段を昇った。

赤や黄色、そして瑠璃色にベンガラ色、さまざまな色の落ち葉は踏み付けられることにより、夕焼け空に消えていく金管楽器の音色のような悲しい声を発するのです。それは、それぞれの落ち葉に残る葉緑素が、冬の到来に自らの余命を知り、太陽への最後の想いを託した歌声が、しみじみと心に響くものとなるからなのです。その動物が近づくにつれて聴こえる音楽は、パイプオルガンの通奏低音のような重厚な音と,時々アクセントとなるトランペットの煌びやかな高音から成り立っていました。その調べは、深い森の木々の合間を通り抜け、白い音符が波の波濤のように書き込まれた楽譜となり、一枚一々、ふわりふわりと雪のような静けさで、落ち葉の上に降りていくのでした。それらが積み重なったようすは、地面から少し浮き上がったところに位置した、人間の背丈ほどの白い雲の壁のように見えるのでした。その動物の頭部がその壁を破って現れたのは、それから暫くしてのことでした。その動物は鹿のような生き物でした。そしてその額には、中央に赤いルビーを嵌め込んだ銀色の十字架を飾っていたのです。そしてその目は、これ以上の純粋さは在り得ないほどに澄み渡ったものであり、生への執着すら潔く捨て去った無の境地を表わしていたのです。そのような鹿たちが、一頭また一頭と壁を通過して現れ出る光景は、神聖なる儀式のように、厳粛であり、神秘的であり、宗教的であるという表現が最も相応しいものでした。バイエルンの碧い森のなか、滾々と湧く泉を取り囲むようにして鹿たちは集まり、その周りを今度は白い雲の壁が円環を閉じるように囲んでいるのです。やがてその空間には、絶対的な静寂が訪れることとなり、鹿たちが泉の水を口にする音とその際にしたたり墜ちる水滴の音のみが、冷たく研ぎ澄まされた空間に響いているのでした。心を一つにした、穢れを知らない鹿たちの安息のひと時が生まれたのです。その時、鹿たちの耳はいっせいに何かに反応したようでした。恐らく全てを凍結して、粉々に粉砕させてしまう冬将軍の進軍の合図を感知したに違いありません。一瞬にして泉の水面には、氷が音を発てて張り巡らされていくのでした。リーダーと思しき牡鹿は、ゆっくりと慌てることなく、薄氷を踏みながら泉の中央まで歩み寄り、何かを強く念じるように、空中に足を揚げ、一歩を踏み出したのでした。するとそこには、「ピン」と張り詰めた緊張感から、一枚の氷の板が生まれるという奇跡が起こり、牡鹿が階段を踏み上がるたびに、その奇跡は繰返して起こったのでした。螺旋を描きながら天を目指して昇っていく階段には、牡鹿を先頭にした鹿たちの群れのシルエットが、それを追いかけるように映し出されていくのです。そして、牡鹿が天上に在るもう一つの水面に達したに違いないと想われたのは、光の塊が氷の階段を跳ねるようにして、輝きながら転がり墜ちて来るのを目撃したからでした。水面を透かして観える向こう側の景色は、愛らしい桜の花をつけた小枝が、風に吹かれて揺れているのでした。それは、生命の復活する春の世界が広がっていることを予感させるものでした。そして、あのトランペットの音色も微かに聴こえて来るのでした。
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# by artbears | 2006-11-18 12:05 | 未白

黒い立て髪の黒馬は、その黒い瞳の中に白い立て髪の白馬を視つめていた。

黒い大きな瞳には、透明の涙が溢れんばかりに満ちていたのです。その少し粘り気のある涙は、黒光りする真珠のような球体の表面をなぞるようにして、瞳の奥から湧き上がって来ているのです。その光景は、まるで暗黒の世界から、黒い風船が浮上して来ているようにも観えるのです。その時です。突然、黒馬はその黒い立て髪を振り乱して走ることを決意したのでした。黒い艶やかな髪は、私の目の前で踊り狂うかのように広がり、その一本一々が意志を持った生き物のように、強風に煽られながら蠢いているのです。それらの黒い髪の乱舞の背後には、黒い瞳のだんだんと巨大化する在りさまを観ることができ、それが別世界への入り口であるかのように魅惑的に見えてくるのでした。望遠鏡のレンズを逆に覗き込むようにして視てみると、瞳の奥の奥には、なんと白い立て髪の白馬の不安げな姿が、蜃気楼のように揺れているのです。私はその黒い瞳の角膜を破るようにして、両手を前方に突き出した海老のような格好を採りながら、瞳の内部に侵入することを決意したのです。遥か彼方に視える白馬の白い立て髪を、両目から手繰り寄せるように引き込み、黒いゼリー状の物質と絡ませながら、両耳から排出するという作業を、どれほどの間続けたことでしょうか。そしてやっとの想いで、白馬の豊かな臀部のうねりが手に届く距離に達したと感じた瞬間、私は険しい岩肌に空いた洞窟から飛び出し、真っ逆さまに海辺の波打ち際へと落下する自分に気付いたのでした。眼下には白い砂丘が視野に入り、次にその砂の一粒一々までが視えようとした時、私の両足は逞しい黒馬のそれに変わっていたのでした。私はこの脚を八の字に踏ん張るようにして大きく広げ、砂浜に着地することに成功したのです。海辺には右にカーブを描くように湾曲した絶壁が高く聳え立ち、半円となった砂浜と青空を背景にして垂直に立ち上がる絶壁との境界線が、どこか幾何学的な冷たい世界を象徴しているように想えたのです。白馬はと言うと、誘惑の表情なのか、それとも恐怖を抑えたそれなのかを曖昧にしたまま、海に向かって走り続けて行くのでした。そして私が海辺まで追い詰めたと想った時、白馬の背中からは天使のような美しい白い羽が急速に成長し、「バサッ」と大きく羽ばたくことにより、青空に力強く舞い上がったのでした。私には羽が無い。そして私は海中に突入して、その四脚を虚しく回転し続けていたのでした。すると前方の薄暗がりの中からは、悪魔の心を持つことが明らかな三匹の鮫が、身をくねらしながら泳いでくるのでした。私は想わず海中から天を仰ぎ見て、海面近くまで降下している白馬に、全てを犠牲にすることも厭わないと誓ったのです。それは白馬が、今は黒馬である私のもう一つの可能性であり、そしてもう一つの過去でも在ることを感じるようになっていたからなのでした。
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# by artbears | 2006-10-30 18:46 | 未白

私は白い雪、そして白鯨とともに遠くの波打ち際の響きを懐かしむ。

私は白いビロードを拡げたような雪山の小高い丘に積もっている雪でした。朝日がいつものようにキラキラと光の粒子を輝かせ、小さな雪の妖精たちが上昇気流に乗って天空に舞い上がろうとしているころ、私は決まって私の白いビロードの衣服に残された黒い足跡について想い悩むのでした。その足跡は、ある時には剛毛を逆立てた熊のそれのように傲慢であり、またある時には敏捷で抜け目の無い山猫のそれのように狡猾であるのです。そしてその足跡が古い木製の階段の軋む足音へと変化し、一歩また一歩と近づく恐ろしい気配となって私を支配し、最後には鋭利な刃物の刃先となって私の心の扉に突き立てられようとする瞬間、私の全身の皮膚細胞からは悲鳴の涙が堰を切ったように流れ落ちるのです。私は囚われの身であり、この足跡の束縛から解き放たれない限り、私の心は閉ざされたままであることを知っていたのです。しかしそんな時にあっても、天空には暖かく慈愛に満ちた陽光が渦巻きながら光を放っており、小さな雪の妖精たちと戯れるように遊ぶ白い手袋のような羽を持った鳥たちの存在があることを忘れることはありませんでした。その陽光の暖かさを充分に宿した純白の手袋のような羽で、この私の衣服に描かれた黒い文様を、そしていまや私の裸身にまで達そうとしている足跡の黒い心を、救い取ってくれはしないかと何度願ったことでしょう。そんな私の願いは想わぬかたちで叶うこととなりました。それは、私が陽光自体を全身に浴びることを決意し、その一筋一々の光が私の身体のあらゆる細胞をいたわり愛しむものであることを知り、私の「パックリ」と開いた心の傷口をつぎつぎに癒してくれることを感じ取ったからこそなのです。陽光の愛を一身に引き受けることによって、私の体温は上昇を続け、やがてそれは感涙となって私自身を溶かすこととなったのです。私は涙そのものとなり、流れる水となり、そして逃亡への水路へと流れ込んだのです。やがて私の関心は、私を苦しめ続けたあの足音が遠ざかる響きとなり、その響きと交代するかのように聞こえてくる小川のせせらぎに向かったことは言うまでもありません。なぜならば、そのせせらぎの音とは、私自身の歓喜の気持ちが自然の秩序のなかで変奏されている調べとなっていることに違いなかったからです。そのささやかな変奏曲は、やがてオーケストラの奏でる大いなる交響曲の響きとなり、私が大海に辿り着いたことを告げるのでした。大海には白い鯨が悠々と泳いでおり、時たま吹き上げる潮吹きの光景は、まるで雪山に吹き荒れる吹雪のように厳かであり、自然に対する畏怖の感情を抱かせるものでした。この雄大でありながら、繊細な心の持ち主である白い鯨と寄り添うようにして泳ぐことにした私は、その足跡の痕跡がどこにも見当たらない白い巨大な体に耳を押し当てて、遠くに響く懐かしい波打ち際への想いを募らせたのです。その打ち寄せては引いていく自然の摂理である波動に、私は永遠の心の安らぎを感じ、ゆっくりと心臓の心拍をそれに同調させることにしたのです。
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# by artbears | 2006-09-02 20:21 | 未白

垂直に立つ黄金色のシロナガス鯨とその体内に湧くエメラルド色の泉について。

それは、神々の君臨を象徴するかのように、明るく澄み渡った水色の空を背景にしながら起こったことでした。黄金色に輝くシロナガス鯨の巨体が、口先を上方にして、まるで天を指差すかのように垂直に立った格好で、ゆっくりとしかも着実に降下して行くのです。この超現実的な光景に魅了された私たちは、心を一つにして、そこに飛び移ることを願ったのでした。私たちの感覚が蘇ったのは、鯨の「さえずり」と呼ばれる柔らかい舌の上でのことでした。それから、その口元の白い半透明の髭のような物質が身体に絡みつくのを避け、それを掻き分け掻き分け喉元と想われる場所にやっとの想いで辿り着いた私たちは、大きく深呼吸をしながらお互いの安堵の表情を確認し合ったのです。私たちは休む暇もなく、鯨の食道に沿って旋回しながら下がってゆくロープだけを頼りにして、無重力に近い空間を、しっかりと手を握り締めて降りて行くことにしたのです。そこには、蒼い血管を誇らしげにその透明の皮肉を通して浮き上がらせている烏賊やワルツのテンポに合わせて踊るような優美さで泳ぐ水母などが生息していたのです。私たちは、彼らといっしょになって、下へ下へと押し流されて行く漸動運動に身を任せることにしたのです。ところどころに観察される鯨の内壁は朱色に染まった寒天状の皮膜から出来ており、その内奥からは潮が渦に向かって急速に流れを速めている光景が暗示されているのです。奇妙な例えようのない不安と危うさを報せるような匂いが、甘い甘い海の神秘を讃えるような芳香に変化したのに気づいたのは、私たちが三つの白い空洞からなる鯨の胃と想われる空間に辿り着いた時のことでした。その内の真ん中に位置する洞には、どこまでも透き通ったエメラルド色の体液をたたえた泉が湧いていたのです。水底から揺らぎながら浮き上がってくる歓喜の表情とその歌声にしばらく見惚れていた私たちは、意を決して、その喜びと美声の持ち主を探さんがために、波一つ起たない水面めがけて飛び込んだのでした。水面に到達するまでに、再び襲われた無重力の感覚を経験しながら、私たちはその歓喜の表情が小魚の銀色に光る群れから成っていることに気づくだけの冷静さを失うことはありませんでした。水面は蓮の花びらが閉じるように、私たちを包み込みながら水中に導くのです。体液からなる泉の素成が身体の皮膜を通して侵入してくることに対する躊躇いと、いやむしろそれを受け入れることによる変化を心待ちにする気持ちが合い半ばしながら、私たちはゆっくりと水面を反対方向から見上げる体勢を取ったのです。すると、水底に向かう幾本もの光の束の収束する辺りには、空っぽになった木製のボートの船底が、主の帰りを待ちわびるかのように揺れ動いているのです。歓喜の表情を操る歌声の主と想われる存在が、水底の暗がりから急速に浮上する気配を感じた私たちは、数多くの気泡と無数の小魚たちの祝福に見守られながら、ボートの縁へと手を伸ばしたのです。黄金色に輝くシロナガス鯨の上昇への反転を感じたのは、ほとんど同じ時であったと記憶するのです。
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# by artbears | 2006-08-19 19:56 | 未白


ソフトマシーン・やわらかいきかいのひとりごとです
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