人気ブログランキング | 話題のタグを見る

夢博士の独白



盲目の扉又は聖書の真実、地球に堕ちたロックスター、超越的存在と英訳された私の死

 私の「左眼」に薄くて透明なフィルムが貼られる。私の「眼球」を正しく切り開くための「被膜」が張られる。それは、事前ではあるが、一方的に告げられた「手順」でした。拒むことのできない小さな「死」への「入口」が視えてくる。引き返すことのできない「扉」の向こうには、「聖書」を読むまでもない「真実」が待ち構えている「予感」がしたのです。
 デヴィッドの「左眼」は純血の緑色だったのだろうか、それとも灰色の「銀狼」との混血だったのだろうか、何れにしても正常な「右眼」とのバランスを失っていたのは確かでした。「都市」を彷徨う老いた「銀狼」は、初めから「死」を見詰めていたのです。視えない盲目の「扉」が迫ってくる。「手品師」の滑るような「指先」が、鋭利な「刃物」を操っている。その金属の冷たく人工的な「閃光」が、私の「記憶」を呼び覚ましたのです。
 デヴィッドは地球人であるボウイを殺すことによって、異星人であるジギーに生まれ変わった。「観者」からしか視えない「偽者」のジギーを演じることによって、「本者」のジギーに成り切ることができた。そして、多くのロックスターの忘却という「死」を目撃したデヴィッドは、今度はジギーを殺すことによって、まるでイエスのように「他者」の「記憶」に生きることを選んだに違いない。
 ジギーとしての最後のコンサートでも、やはりブレルの「私の死」はインターバルの前に歌われていた。私の「記憶」の中でも、多くの「認識」の「紐」が次々と繋がって行ったのです。この「世界」は「認識」の数だけ「解釈」が成り立つのかもしれない。確か、スコットの最初のアルバムでも、「私の死」はA面の最後に歌われていた。二人の英訳された「歌詞」には違いはあるが、「死」は仏語本来の抽象名詞や女性名詞ではなくて、擬人化された男性名詞として扱われていた。私の「記憶」が浮かんで来たのです。「私の死」が、私の目の奥で歩き始めたのです。
 真新しい「墓標」が視えて来ました。その眩しさ、その厳かさに老い衰えた「放蕩者」は、思わず「顔色」を曇らせたのです。私は「口笛」を吹くが、どんなに強がっても、過ぎ去った「時間」には届かない。黒い砂漠の「流砂」には聞こえない。その先の「死」が、真夜中に現れる「魔女」のように待っているのです。
 朽果てた「墓石」が視えて来ました。その周りには、漆黒の「影」が蹲っていたのです。それらの「影」が、申し合わせたようにして散らばっていく。献花された「花束」、咲き乱れた「花園」、生い茂った「草花」、それらの至るところに隠れて、「死」は忍び寄っているのです。あの「手品師」の大きく開いた袖口から、「白兎」と「黒犬」が走り去るのが視えました。盲目の「扉」は予告なしに開かれるのです。
 ブレルの「歌詞」が繰り返して続く。例え「扉」の向こうに何が待ち受けていようが、敢えてすることは何もない。それが「天使」であろうが「悪魔」であろうが、私の知ったことではない。確かなのは、その「扉」の前には、いつも「貴女」がいて、その冷たい「指先」が、いつか私の「両眼」を閉じることなのです。私の目の奥では、忘却の「帆船」が白い「航跡」を描いている。それは、不可逆的な「過去」を引き摺りながら曳航している。
 スコットは、アイドルと見做されることを「拒絶」することで、自らの「人格」を創り上げた。一方、デヴィッドは、自らのイメージを創り変えることで、ロックスターとしての「延命」を計り、その商業主義と芸術性の折り合いを付けることに成功した。彼等は、自らの絶頂期に自らを葬り去ることによって、いかにして「死」を迎え入れるのか、いかにして「生」を終わらせるのかを、常に「意識」していたのです。
 いくつかの「墓地」を通り過ぎて行く。すると、遥か「彼方」に「高山」が観えて来たのです。超越的な「存在」が、この世からの「孤高」が見えて来たのです。デヴィッドの「訃報」が届きました。私は、あの「頂上」に在って、この世を見下ろすことの「孤独」と「恐怖」を想ったのです。そして、遥か「彼方」に超越的な「存在」が視えたからこそ、救われたことを思ったのです。
盲目の扉又は聖書の真実、地球に堕ちたロックスター、超越的存在と英訳された私の死_d0078609_20534768.jpg

# by artbears | 2016-03-29 20:55 | 連白

赤く起立する教会と旋回する光輪、巨大な氷山と夢想の大海、病室から視えた六月の月

 私の「記憶」が正しければ、開け放たれた「窓」は二つであって、そこから観える「空」は一つであって、それは、私の「心」を映し出したものでした。解き放たれた「白鳩」は十二羽であって、それらは、「対岸」に視える真っ赤な「尖塔」の周りを、真っ白な「光輪」となって旋回し始めるのです。やがて、左の「窓」は閉じられても、慈愛に満ちた「春光」は、右の「窓」から優しく射し込んでいたのです。
 私の「記憶」が正しければ、その「光景」は「夢」の中での出来事でした。それ故、それが「夢想」であったとの「判断」も容易に下せたのです。儚く移ろいやすい「記憶」は、巨大な「氷山」の一角となって、「夢」の「大海」を漂流している。その「大海」から突き出た小さな小さな「尖塔」に辛うじて生息している。
 「対岸」は「島影」よりは明瞭に見えたのですが、ジッと目を凝らして視ると、水平線が「波浪」のように上下に揺れていたのです。私は平衡感覚を失ったのだろうか。強い船酔いのような「不安」が増大する。「眼球」の裏側に注射針が撃たれる。楽観的な「夢想」が悲観的な「幻想」へと脱皮しようとしている。この「幻想」が、赤く聳え立つ「尖塔」への「幻視」を欲したに違いない。ところが、その垂直に起立していた「教会」すらも、大きく左右に揺らぎ始めたのです。
 このすっかり騙されてしまう「夢」の現実感は、何らかの「意図」があって現われてくるのだろうか。その「背景」には、どれほどの「意味」が隠されているのだろうか。それは、ポロックの「絵画」のようには「中心」を喪失していない。実は「背景」は見えていない。「意図」と「意味」は、その「中心」を視ることに在るのだろうか。そもそも、このリアルな「感覚」とは何なのだろうか。ポロックが無意識のうちに提起した「絵画」の「問題」は、「夢」の中にも存在していたのです。
 私の「夢」の続きは「対岸」から始まりました。人影の消え失せた「街角」を曲がると、「濃霧」は一層深まって、その「悪霊」のような「冷気」を吸い込んだ「私」は、目の前の茫洋とした「教会」が、あの巨大な「氷山」のように見えることに立ち竦んだのです。とにかく、この「幻想」の「幻視」への展開を止めなくてはいけない。ロバートの繊細で消え入りそうになる、それでいて、温かく誠実な人柄が偲ばれる「歌声」が聴こえて来たのは、まさに、その時の事でした。
 聳え立つ赤い「教会」、その「尖塔」は「濃霧」によって隠されている。その上の「雲海」が「濃霧」を圧し下げている。抑圧的な「教会」、その重厚な「扉」を開けて駆け込むと、地下への「階段」が「視界」に入ったのです。何の迷いもなく、「階段」を駆け下りた「私」は、地下室の木製の「扉」を開きました。そこには、車椅子のロバートが、愛用のピアノを前にして静かに座っていたのです。
 「階段」から転落して失った「自由」、その「制約」を受け入れたからこそ創れた「音楽」、そして、虚飾と詭弁を排したシンプルで力強い「言動」、それらは、彼の一貫した「音楽」の「社会」との関わりを意識した「思考」から導き出されている。それは、「社会」の「不実」に対する告発と変革を希求する、ロックの原初的な「精神」に根差したものでした。だからこそ、彼の「音楽」は中心性を失うことなく、リアリティーを持続している。「自由」の貴重さと困難さと危うさが、その「音楽」から聞えてくる。強靭で柔軟なカンタベリーの「大木」は、豊かな「果実」を実らせたのです。
 私の「左眼」の「手術」が間近に迫っていることが告げられました。車椅子に座っている「私」に気付く、奥の奥に在る「病室」に移動する。後方の「人影」が前方の「扉」を次々に開けて進む。左右の氷のような青白い「手」、その「冷気」が「私」を運ぶ。
 私の「夢想」が正しければ、「病室」には一つの「窓」がありました。そこから観える「夜空」には、美しい「六月の月」が視えたのです。何度も何度も視て、何度も何度も聴いた「記憶」が、蘇って来たのです。若々しいロバートの「歌声」が、リアルな「月夜」に響き渡ったのです。一羽の「白鳩」が舞い戻ったことが告げられたのです。
赤く起立する教会と旋回する光輪、巨大な氷山と夢想の大海、病室から視えた六月の月_d0078609_9194215.jpg

# by artbears | 2016-02-29 20:38 | 連白

水面に映る魅惑と畏怖の感情、漆黒の暗闇からの脱出、蝋燭の炎と空に開け放たれた窓

 私の「意識」は「森林」から抜け出して、「坂道」を下り、でも、あの美しく澄んだ「湖面」のような「瞳」が忘れられなくて、何度も何度も振り返らざるを得なかったのです。それは、どことなく冷ややかで、近寄りがたく、遠くに感じるものでもありました。その美しさへの「魅惑」と厳しさへの「畏怖」、それらの相反する「感情」の「桎梏」から抜け出そうとしていたのです。
 あの時、「桎梏」は漆黒の「暗闇」となって、その「魔手」が足元に忍び寄っていた。私の「意識」は夢遊病者となって、鬱蒼とした「森林」の中を彷徨っていた。その「足跡」は消されているが、その「記憶」は身体に残されている。
 その時、木漏れ日が眩しく射して、私は薄明の「世界」に目覚めたのです。強烈な渇望感に立ち止まったのです。厳しく凍った「湖面」が観えて来ました。「水面」には無表情の「能面」が視えて来ました。存在すると思って凝視する、しかし、そこには何も無い、無明の「世界」が映っていたのです。
 この夢幻の「世界」から、何とかして抜け出さなければならない。その想いが深まれば深まるにつれて、漆黒の「暗闇」は底無しに思えたのです。ケビンの「音楽」との出会いは、そのような出口無しの「暗闇」での出来事だったのです。
 曖昧模糊な「地平」と広大無辺な「荒野」が拡がっていました。マレーシアの心地良い「微風」が吹き抜けていく。マジョルカ島の風光明媚な「島影」が観えてくる。玩具の「悦楽」とは何か、月に撃つ「弓矢」とは何か、バナナへの「偏愛」とは何か、そのどこかユーモラスで諧謔性に富み、茶目っ気たっぷりのボヘミアンが創り出す「音楽」は、荒れ果てた「原野」を実り豊かな「田園」に変えて魅せたのです。暗くて陰鬱な「世界」は、青く晴れた「空」に開かれて、いきいきと「生気」を取り戻していったのです。
 こんもりとしたなだらかな「丘」が視えて来ました。その「丘」で、一個の「小包」が手渡されることになっていた、と囁く低音の「声」が、「耳」の奥から聞えて来たのです。「小包」は時限爆弾のように開かれて、その中には、おとぎの国の小さな「城」が丁寧に包まれていました。それは、「夢」の中でしか起り得ない、摩訶不思議な「体験」のように思われたのです。そして驚くことには、二頭の雄雌の「鹿」が、私の左右に寄り添うようにして、「小包」の内部を興味深く覗き込んでいたのです。
 「城」が巨大化されたのか、「私」が相対化されたのか、それは知るすべがない。そうこうしていると、「城」への「入口」である、跳ね橋がゆっくりと下ろされたのです。その一部始終を、我々は、息を呑んで見守っていました。我々が、誰かに招き入れられていることは確かだったのです。あの低く太い「声」が再び、「水」の底から聞えて来たのです。
 螺旋状の「階段」は、まるで「天」に駆け登る「竜」となって、回転しながら「尖塔」を目指していました。蝋燭の「炎」が「階段」を照らし出している。「壁」には、「夜」の舞踏家の「影」が踊っている。夢遊病者の「軍隊」の正確無比な「靴音」が聞えてくる。やがて、独りぼっちの「私」に気付く、そして、漆黒の「暗闇」に取り囲まれていることを知る。「孤独」が「私」に追い着いて、追い越そうとしていたのです。
 「記憶」の中にある木製の「扉」は開いて、私を待っていました。私の「入室」が確かめられるや否や、ハンドルの無い「扉」は閉じられたのです。後方を振り返って、再び前方を振り向くと、「窓」は開け放たれていて、白いレースのカーテンが「風」に靡いていたのです。窓際には黒い「椅子」が在って、その上に置かれた蝋燭の「炎」が揺れていたのです。
 黒い「影」は白い「鳥」となって、「窓」から飛び立った、そのような「形跡」が残されていました。ベッドの上には、「少女」が包まっていた真新しいシーツが敷かれていて、そこには、彼女の「体温」が感じられたのです。私は、彼女が、あの漆黒の「暗闇」の「魔手」から逃れられたことを願わずにはいられなかったのです。
水面に映る魅惑と畏怖の感情、漆黒の暗闇からの脱出、蝋燭の炎と空に開け放たれた窓_d0078609_18343987.jpg

# by artbears | 2016-01-30 18:35 | 連白

風に吹かれる言葉と存在の偶然性、半島又は島影と津波の記憶、湖水に群れを成す雌鹿

 白い「芥子」の「花弁」が風に吹かれていたのです。「目」の奥で白く散り始めたのです。それは、「花冠」を構成している「花葉」と呼ぶべきなのか、「萼片」と呼ぶべきなのか、それらの「言葉」が「花弁」となって、風に吹かれていたのです。
 私に「言葉」が無ければ、「言葉」とイメージの「符合」が無ければ、その「存在」の曖昧さは捉えどころがない。永遠の「彼方」に取り残されている。それは、「夢」の中をヒラヒラと飛び交う、名前も呼名も知らない、白い紙切れのような「蝶」と何ら変わらなかったのです。「存在」は、何時も掴み取れない、何時も擦り抜けている。「夢想」のようにフワフワと浮かんでいて、「真実」の重みから「自由」でいる。
 鬱を患った「森林」、疲れ果てた「坂道」、熱を帯びた「悪夢」、それらを通過する「儀式」が終わりを告げるのは、この「半島」の「頂上」での出来事のはずでした。そのことが、「友人」からのメールには仄めかされていたのです。ところが、いくら周りを見回しても、「友人」の「面影」は見当たらない。白々しい「空虚」だけが待っていたのです。
 そもそも「友人」とは誰だったのだろうか。その「顔」がどうしても想い浮かばない。それは、「自我」を確立するための「他者」だったのだろうか。私は、その「顔」を一心に想い描きました。すると、私の「心」が二つに分かれて、その「割目」からのっぺらぼうの白い「顔」が覗いたのです。とどのつまりは何時まで経っても、私は真の「自己」には出会えない、出会い損なっていたのです。
 「牡鹿」は群れを成して「半島」を目指していた。その「幻影」が再び蘇って来たのです。「傍観」せざるを得なかった私は、陸地を迂回する「選択」をして、この「半島」に辿り着いたに違いない。その「記憶」が再び甦って来たのです。「幻影」と「記憶」が合成されて、「島影」が再び「目」の奥に現われようとしていたのです。
 「島影」を視てはならない。その「幻影」が、あの大津波の「記憶」に呑み込まれなくなるには、どれだけの「時間」が経てばいいのだろうか。どれほどの「道程」を歩めばいいのだろうか。ディランの「歌詞」が聞えてきたのです。答えは「風」に吹かれている。答えは「風」の中に舞っている。「事物」の本質は偶然性に在る。彼の「言葉」は、まるで「存在」の「定義」と同じように、あまりにも曖昧で捉えどころがなかったのです。
 「風」が再び吹き、何かが壊れてしまったことを告げていました。一枚の白い紙切れがクルクルと舞い降りてくる。何かが書かれているようだが、誰も拾って読もうとはしない。そして、自ら「風」に吹かれようとしている。茫然自失としていた「私」は、それに気付いて、それを掴み取ろうとしたのです。その「瞬間」、一枚の白い紙切れは、まるで一匹の「蝶」のようにして舞い上がる。居心地の悪い「意識」だけが取り残される。
 気が付くと、私の「意識」は転がる「小石」の「内側」に閉じ込められていたのです。「小石」は「坂道」を転がり落ちる。「外側」の「世界」が丸く観える。魚眼レンズから覗いたように円く視える。クルクルと「回転」のスピードが速まる。やがて、円形の外枠の「内側」に黒い「眼球」が並び始めたのです。透き通った「泉」のように純粋で、穢れを知らない「瞳」が回り始めたのです。
  「雌鹿」は群れを成して「湖面」を取り囲んでいた。「水」を飲みながら「風」を読んでいたに違いない。波ひとつ起たない「湖面」は美しく打ち震えていたに違いない。私の「意識」は、その「静寂」を打ち破るように浮上したのかもしれない。その「水音」に「雌鹿」の「耳」がいっせいに反応したのです。聞き「耳」が南の「方角」に向けられたのです。
 何頭かの「牡鹿」が「海峡」を渡り終えた報せが届いたのかもしれない。彼女たちの「耳」は、「世界」の悲痛で悲惨な「物音」に向けられていたのです。多くの「難民」が「国境」を越えようとしている。北イタリアの都市国家の「光景」が、揺れ瞬く「瞳」の奥の奥に映し出されていたのです。
風に吹かれる言葉と存在の偶然性、半島又は島影と津波の記憶、湖水に群れを成す雌鹿_d0078609_11164021.jpg

# by artbears | 2015-12-31 17:08 | 連白

北上する牡鹿と落下する星座、脈絡を欠いた夢想又は悪夢、象徴としての芥子と十字架

 それは、甘い「夢」のように頼りなく、白い「雲」のように気紛れに、私の目の奥に現われたのです。それは、液晶の薄っぺらな「表面」とは明らかに異なる、古いブラウン管式のTVモニターの奥に在る「暗闇」に浮かんでいたのです。アンディの「冷笑」が視えては隠れる。ヴェルヴェッツの「音楽」が聴えては消える。その一見秘かで穏やかにさえ見える「光景」が急変することは、今さら驚くような「事態」では無かったのです。
 遥か彼方に「島影」が視える。そのことは、どちらかが「半島」であることを示唆してはいるが、そのことを確かめる「手段」は与えられていない。私は、何時ものようなゲームが、何時ものようなルールで始まったことを知らされたのです。
 「白雲」は千切れて、「陽光」ですら迷走している。やがて「夜」を迎えると、端然と輝く「星座」が崩れて、粉々となった「流星」が地上を目指して突入してくる、それは、目に見えていました。イメージがかくの如くして「出現」するのは、先刻承知のはずでした。「空間」は、まるで書庫に眠る「古書」のように厚みを増し、「時間」は、まるで脱兎の「心臓」のように、その「鼓動」を高めるのです。絵空事とは呼べない「事態」が迫っている、そのことが、「夢」の中で起ころうとしていたのです。
 しばらく音信の途絶えていた「友人」から、北の「方角」で待つというメールが届いたのは、確か数日前のことでした。取るものも取り敢えず、慌てて旅支度を終えた私は、何か途轍もなく大きな忘れ物をしているようで、そのことが「重荷」となって、なかなか重い腰が上がらなかったのです。それが、無為に過ごした罪悪感からきた「感情」であったことを知らされたのは、確か数日後のことでした。
 柔らかい「絹糸」で編んだカーテンを引くと、硬いガラス製の「窓」の向こうでは、相変わらずの不穏な「気象」が続いていました。何もかもが、有無を言わさずに飛ばされている。「木立」がザワザワと波打ち、「電線」がブルブルと震えている。それは、古い白黒の「無声映画」がカラカラと早回しにされているようであり、私の失われた「過去」のバラバラに切り取られた「証拠写真」が飛び散っているようにも見えたのです。
 私には、腰が軽くなるまでの「時間」は与えられていない。その「自覚」に、私の「意識」がようやく追い着いたのは、北上する鹿の「大群」が「半島」を目指して、次々と「海面」へと投身する「光景」が目に飛び込んできたからでした。このままでは、「約束」した「時刻」に間に合わない。そもそも、私は「約束」などしてはいないが、「反古」にしたという「記憶」は残っている。落下する「流星」と投身する「牡鹿」のイメージには、私を急がせる「理由」が隠されているに違いないと思ったのです。
 「海中」から見上げている黒い塊のような「影」に気付いたのは、「夢」が別の「展開」を欲望したからでした。それは、私の「悪意」なのだろうか、それとも黒いだけの「岩肌」なのだろうか、何れにしても、その「存在」が極めて不気味に思われたのです。案の定、「海面」近くでは、無数の四本の「手足」がもがいている。無数の「苦悩」が空回りをしている。無数の「労力」が水の泡となって消えている。黒い「眼球」がゴロンと動いて、私は狙われているのか、救いを求めているのか、「夢」は一向に語ろうとはしない。
 私はきっと、悪質な「風邪」に体力を奪われてしまったのです。そして、いくつかの「悪夢」に魘されながらも、この「海面」を見下ろせる「半島」に辿り着いたのだと想ったのです。「頂上」では、ヒマラヤに咲く白い「芥子」が「種子」を膨らませていました。白い「粘液」が滴り落ちて、その真っ白に染まった「絨毯」の上には、「太陽」の光線が束ねた「金髪」と張子の「赤牛」が納まった「竹籠」が置いて在ったのです。
 私の「視線」は遠方の「島影」を探し求めました。その「幻影」に向かって、鹿の「大群」が泳いでいたのです。やがて「夜」を迎えると、光り輝く「流星」が「島影」に代わるに違いない。白い十字架のような「灯台」が視えてきました。その「希望」に向かって、「小舟」が漂流していたのです。白人の「男」は明らかに被弾していて、黒人の「女」は強く「幼子」を抱きしめていたのです。
北上する牡鹿と落下する星座、脈絡を欠いた夢想又は悪夢、象徴としての芥子と十字架_d0078609_11135160.jpg

# by artbears | 2015-11-30 20:40 | 連白


ソフトマシーン・やわらかいきかいのひとりごとです

by artbears
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
カテゴリ
以前の記事
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧