夢博士の独白



カテゴリ:哲学( 8 )


死に臨む存在と認識された時間の概念、開かれた瞳孔又は窓に映し出された記憶の原景

とにかく眠ることにしよう。私は「記憶」を手繰り寄せようとしたのです。何とか昨日までのあの「感覚」を取り戻そうと努めたのですが、疲れ切った重い「身体」は病室の白いシーツに沈むことを選んだのです。最初は明るく目を惹く「光源」が見えて、最後は長く帯状に切り裂かれた「傷口」が見えて来る、それらが、ぼんやりと「記憶」の周辺に集まろうとしていました。ところが、「左眼」の鈍い痛みを伴う違和感は、そこに陥没した「空洞」が存在しているような奇妙な「感覚」を生み、それが何か特別な未知の「個性」のように主張を始めたのです。ある「変化」が起こったに違いない。それは、終わったことを告げているのか、始まったことを告げているのか、どちらとも特定できない抽象的な「変化」を感じ取ったのは、私なのだろうか。もし私でないとしたら、私の「脳髄」、私の「神経」、それとも私を計測する「機械」なのだろうか。それが解らない。とにかく眠ることにしよう。「解答」を求められた私の「精神」は困窮して、眠りの「闇夜」に逃げ込むことを選んだのです。入院を前にした、あの「冬空」の寒々とした高潔さ、あの優雅さを失わない透明な「感覚」が、私は好きでした。なのに、この「闇夜」は、まるで降り続く黒い雨で閉ざされた「病院」のように、私を圧迫して覆い被さって来る。雨の「水滴」の付いた窓ガラスにピッタリと押し付けられた滑稽な「顔」、それが、悲痛に歪む私の「顔」だと判別できたのは、手術室へと直行するエレベーターの「扉」が、唐突にかつ厳粛に背後で開かれた「瞬間」の出来事でした。無人の「空箱」が、私を無言で催促する。もう一度恐る恐る振り返ると、窓ガラスには、私の「瞳孔」を円く切り取ったフィルムが貼り付けられている。それは蒼くて繊細で、あの「冬空」のように美しい。ああ、そうなのかと、私は無言で納得する。これが、あの冷静沈着な「医者」から説明を受けたフィルムであり、4本のドリルの「穴」は、このフィルムを貫いて空けられるに違いなかったのです。しかし、この他人の「瞳孔」のように無防備に開いた「窓」は、私を魅了して止みませんでした。なぜならば、その「窓」の奥の「網膜」のスクリーンには、蒼い「空」と碧い「海」が拡がり、半円を描きながら続く「海岸」が映し出されていたからです。そして、その「曲線」は、まるで半月のエッジのように危うく、「狂気」の刃物のように視えたのです。それは、いつかどこかで観た「記憶」に眠る懐かしい「風景」でもありました。「海岸」で無邪気に遊ぶ子供たちの背後には、いつも「死神」が立っていたのです。我々の「存在」は、いつも不条理性、偶然性に曝されているのです。暫くすると、断崖のエッジを走る「細道」を、4台の黒い自転車が一列縦隊になって近付いて来るのが視えました。それにつれて、ドリルの回転する刃先が近付いて来るのが聞えたのです。私はまな板の上の「魚」、どろんとした「目」に見詰められている。交換不可能な一回性の「死」が、確実なものとして「視野」に入って来たのです。生きている「身体」には、決して追い越すことのできない「存在」の最後の可能性が現れて来たのです。と同時に、私にとっての根源的な「時間」が、死に臨む「存在」である自己を「認識」することによって、立ち現われて来たのです。それは、過去から現在を経て未来へと均質的に無限に続く、「死」を隠蔽した、死への「不安」を疎外している「時間」とは全く異なるものでした。それは、私にとっての掛け換えのない、狂おしいほど切実な「概念」だったのです。強制的に開かれた「左眼」を通して、「麻酔」が既に注入されていました。私の「感覚」が無い。私の一部が「物」となって、私から離れて行くのが分かる。それは、まるで途中で停止された「思考」のようだった。代わりに、無人の黒い自転車が近付いて来るのが視える。ペダルが機械の正確さで回っている。ドリルが機械の冷酷さで回っている。これらは恐らく、私の「死」とは無縁に回り続けるに違いない。永遠の「太陽」が容赦ない裁きのように「存在」を照らし出している。自分の「人生」を振り返るには完璧な「瞬間」が訪れようとしていたのです。逃げも隠れもできない。そもそも引き戻すことができない。断崖のエッジを走る「細道」に立った私は、4台の黒い自転車が、私の「身体」を次々に通り抜けることを、息を凝らして待つことにしたのです。
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by artbears | 2013-12-31 18:02 | 哲学

左眼の不安と右眼の安心、眩暈又は未知なる恐怖と快楽の感覚、内部にも存在する時間

静かだ、とても静かに「時間」が滑るように経って行こうとしている。軽い、とても軽やかに「時間」が5本の指の間から零れ落ちている。まるで「砂」のようだ。それが視える。それに触れているように感じる。不可視であり、抽象的イデア的存在であるはずの「時間」が、「砂」という視覚形態をとって、物質的秩序として現れて来ようとしている。「砂」は流れる。しかも速い。何をそんなに急ぐというのだろうか。まるで砂時計の「秒針」のようではないか。それは、私の「脳」が、そのように視えることを欲して、そのように「情報」を修正しているに違いないと、私は「夢」の中で想ったのです。それは、私の「眼」の奥での出来事のようでした。私は、私の左眼の網膜上に、果たして「世界」が正確に写し出されているのかということに、「疑惑」の念を抱くようになったのです。それほど、私の裸眼で視る「世界」は歪んで屈曲して変形が進んでいました。私の左眼は病んでいたのです。今となっては右眼だけが頼りなのです。しかし、正直なところ、どちらの「眼」が正常であるのかの「判断」は、私には下せなかったのです。なぜならば、私の「夢」の中には、「医者」と呼べる「他者」は存在しなかったからでした。地下鉄の「暗闇」を抜けて、白い階段を上がると、「青空」が飛び込んで来ました。巨大な「病院」が歪んで視えたのです。謹厳実直な「医者」の横顔、輝く光の輪、コンピューターを凝視する「視線」、銀色の十字架、曲がった直線、そこにも「砂」は押し寄せていました。私の外部の「時間」は「砂」となって、私を追い詰め、私の内部に流れ込んで「不安」を形成しているのです。一つのイメージが浮び、別のイメージへの変成を促し、それらは、私の網膜上を変遷して、エネルギーゼロの地平(死)に向かって拡散しているようでした。「不安」は連鎖して、私を拘束しているのです。そして、それらの「不安」は、光の輪や十字架といっしょになって、色鮮やかな「蛾」のように軽やかに舞いながら、ひらひらと静かに「意識」の谷底に堕ちて行きました。そして今度は、何とも言えない無重力感を伴って、様々なイメージが「意識」の谷底からゆらゆらと浮かび上がって来たのです。生温かい「風」も吹き上がって来ました。私は網膜上の「断崖」に立っていたのです。それに気付かせてくれたのは、硝子体と呼ばれる白い半透明の「物質」が、私の「顔面」に迫るのを感じたからでした。それは、あの「医者」からの「情報」が変質しているに違いないと、私は「夢」の中で想ったのです。それは、まるでゼリーのようで、とても軟らかい。ぶよぶよとした「感触」が気味悪いのです。ふっと「断崖」から見下ろすと、球面をなぞるように急角度のスロープが視えました。そして、あの「医者」の言った通りに、その硝子体と網膜との谷間には、透明のポリエチレンの切れ端のような「物質」が視えて来たのです。それは、剥がれた網膜の「断片」が硝子体に付着しているに違いなかったのです。それは、視覚形態をとって、物質的事実として現れて来たのです。私の左眼は物理的な「損傷」を患っていたのです。しかし、それを視て逆に、私の内部で肥大化した「不安」という非日常的「感情」は、日常性への回帰の契機を掴んだように思われました。私に「安心」という日常的「感情」が戻って来たのです。流砂となった「不安」は、私に圧死を強いるのではなく、この「世界」の「断崖」に立つ体験をもたらしてくれました。私は、この「断崖」に踏み止まって、あの「損傷」を除去する「決意」を固めたのです。「不安」は塊となって凝固し、明るく輝く無の「白夜」が開かれました。それは、可能性としての小さな「死」の体験でもありましたが、それは同時に、生きるという「価値」に拘束されている「私」を自覚させてくれたのです。そして、この「不安」を介しての、非日常性と日常性との「意識」の往還こそが、私の内部に「時間」の観念を生んでいるのです。にもかかわらず、私の「意識」には依然として、この小さな「死」を放置するという選択への「誘惑」が存在することを認めないわけにはいけません。その「誘惑」はなぜか甘く切ないのです。私は、この「甘い不安」のイメージの「源泉」を探し求めました。すると、小さな子供である私は、途方もなく大きな紫色の「花弁」の先端から、深く謎めいた「花唇」を覗き込んでいたのです。私はくらくらとした「眩暈」を覚ました。それは、滑り落ちる「恐怖」と「快楽」の同居した未知なる「感覚」だったのです。
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by artbears | 2013-11-30 18:37 | 哲学

記憶の教会又は庭園、鎮魂の鐘と厳かに奏でられる音楽の響、孤独に耐えて咲く黒い花

目覚まし時計がどこか遠くで鳴っているように聴こえたのです。それは、はるか彼方で鳴っている「教会」の鐘のようにも聞こえました。私の「意識」は、この非日常的な「生」に留まることを欲していたのです。殺伐としたモノクロームの「世界」が拡がりました。木枯らしが容赦なく吹き付けていました。分厚いビロードのカーテンのような重く灰色をした「霧」が晴れるに従って、丘陵に立った「老人」は、静かに語り掛けて来たのです。黒い渡り鳥の「影」が、何本かの動いている「腕」のようになって、粘土質からなる「土手」を這い上がりました。その「影」は「老人」の足元で消えて、彼方に見える「教会」が指差されたのです。長い年月をかけて「教会」は完成したことが、そして、あの「鐘」が奇跡のように鳴り響くに至った「歴史」が語られ、私の「記憶」の扉も開かれていったのです。そう、私の「夢」の中では今だに、逃げ惑う異教徒の「白衣」は、暗闇に乱舞する「蛍」の弱々しい光のように幻想的かつ扇情的であり続けたのです。白馬に跨る領主の「横顔」には、権力構造の崩壊の恐るべき「光景」が既に写し出されていたのです。多くの見知らぬ役者の印象的な「形相」が浮んでは消えていきます。「映像」は永遠不変の「情報」として、人々の記憶の「教会」に存在しているに違いありません。しかし、その「情報」は時として、脈略もなく結び付き溶け合って、新しい「経験」が創造されるものなのです。鎮魂の「鐘」が優しく厳かに響きました。「運命」の荒波に翻弄され、傷付き辱められた者達が、「記憶」の奥底から次々と姿を現し、鐘の「音色」は、彼等の無念の「精神」を癒していったのです。彼等の「苦悩」は「音楽」となって浄化され、私の記憶の「教会」に響き渡ったのです。私の「教会」? それはいったい何処に存在するというのだろうか? という「意識」が「夢」の中で生れました。そして、その「意識」は、あの残虐極まりない「匈奴」の襲来に脅える人々といっしょになって、「教会」に逃げ込もうとする「私」を視付けたのです。私達の「教会」の扉は固く閉ざされました。そこは、守るべき「精神」の最後の「砦」でもあったのです。私達には、一台の古ぼけたパイプオルガンがありました。片腕を失った「司祭」が礼拝を執り行うことになりました。片足を失った「奏者」がオルガンの前に座り、私達は帽子を脱いで深々と頭を垂れたのです。重厚な「音楽」が、対位法的フーガ形式をとって奏でられました。先ず「主題」が演奏され、それが反復されることにより問い直され、「楽曲」は追い立てられるようにして変容を遂げていったのです。この「楽曲」は全ての音楽がそうであるように、時間の流れを取り込むことで成立していました。そして、この生き物のように流れる「時間」の中で、私達は「音楽」と一体となって、非日常的な「生」を分かち合うことができたのです。私達は一つの「集団」となって、この「時間」の流れの中に「個」を放棄したのです。しかし、「音楽」は、それは「人生」と同じように、いつかは終わる「運命」にあります。そして、私達は、この「音楽」を聴かないこともできるし、この「時間」を断ち切ることもできるのです。その「自由」は常に存在するのですが、その「自由」を対象として認識することがないだけでした。私は「不安」を覚えることなく、安らかな「睡眠」に戻ることを選択していたのです。しばらくすると、目覚まし時計がどこか近くで鳴っているように聴こえたのです。それは、まさに耳元で鳴っている「工場」のベルのようにも聞こえました。私の「意識」は、この日常的な「生」に戻ることを強いられたのです。しかし、この「命令」に従うかどうかを決定するのは、他ならぬ私以外の何者でもないことにも気付いたのです。なぜならば、私は目覚まし時計を掛けない、或いは無視するという可能性に開かれていたからです。何とも言えない複雑な「感情」が湧き起こって来ました。それは、日常的道徳を無に帰する「不安」でもあったからです。しかし、この「不安」の自覚こそが、「集団」に埋没して「世界」に拘束されて生きる「私」に、実は、その行為は私自身が「自由」に選択したものであることを気付かせてくれたのです。私は外的な「命令」がなくとも、私の内的な「意志」で起きることを選択していたのです。私はいつものように障子戸を開き、「外光」を室内に招き入れました。私は縁側に佇み、ガラス戸越しに「外界」を観察しました。そして、私の記憶の「庭園」に咲く紅い花を探したのです。「個」を取り戻した「私」には、それが、孤独に耐えて力強く咲く黒い花に視えるように想われたのです。
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by artbears | 2013-10-31 19:54 | 哲学

巨大な満月と無言の影法師、恐怖から不安へと変わる感情、静寂の歌声又は花開く種子

何かが発生しようとしている。何かが、私を待ち伏せしているような「気配」が漂っていたのです。全ては、この石造りの「階段」を下りて、あの「角」を曲がれば分かることでした。視上げると、巨大な「満月」が、私を見下ろす「視線」となって、私の背後を監視していたのです。視下ろすと、無言の「影法師」が、私を見上げる「幻影」となって、私の前途を暗示していたのです。「恐怖」が這うようにして近付いて来ました。得体の知れない「感情」が、私の「内部」で満ち潮となっていたのです。苦しくて先が視えない、息ができなくなったらどうしよう、私は「恐怖」の感情に溺れそうになりました。にもかかわらず、私の両足は、まるで魔法をかけられた「箒」のように自動歩行をするではありませんか。「止まれ!」と心の中で叫んでも、それは、私の「命令」を無視して、まるで地上を徘徊する「生物」のように動くのです。しかも、実に柔らかくて軽い、まるで空中に漂う「浮雲」のように軽快に歩む。それは「自由」に動いている。私は躊躇した。なぜならば、あの「感覚」が、あの足の裏に貼り付いた重くて長い、押し殺した「溜息」のような「感覚」が消えていたからなのです。私は浮上している。私は戦慄した。なぜならば、この「階段」から転落するという可能性を、私自身を超越した「外的可能性」を認識したからなのです。まさに危険に満ちた「世界」が現れたのです。これでは、まるで路肩に転がる小石と同じ「運命」ではないかと、「夢」の中でふっと思った「瞬間」、私の「意識」も浮上して、私は「階段」を注意深く下りている私自身を見付けることができたのです。私は安堵した。なぜならば、そこに、転落するという外的可能性を回避しようとする私の「意志」と、私の「内的可能性」が視えたからでした。私は自らの安全を「選択」していたのです。得体の知れない「感情」は、引き潮となって消えて行きました。ところが、私の頭上にまで昇り詰めた「満月」は、その「狂気」を宿した「視線」を、私の「脳内」に垂直に突き刺さる「矢」として放ったのです。「狂気」が、私を貫いたのです。すると、無言を決め込んでいた「影法師」は、唐突に多くを語り始めて、それらの「言葉」は「幻影」となって、私の四方を取り囲むことになったのです。一人の「影法師」がカードを配りました。彼等は、私の「顔色」を窺いながら、それぞれに何かが書かれたカードを開いたのです。そこには、この「状況」から導かれる、あらゆる論理的可能性が書かれていました。その中にはもちろん、私が自らの「意志」によって、この「階段」を踏み外すという「選択」も含まれていたのです。何という「自由」、何という「可能性」、私は自らの「自由」に恐怖を覚えるとともに、その感情は「不安」となって、私の「内部」で増殖して溢れ出したのです。それは、私が自らの安全を「選択」すること、その行動には、それと相矛盾する行動を「必要条件」としていたからでした。そして、その行動を「選択」する「自由」が、私の「可能性」として存在していたのです。あの「満月」の「狂気」に応えて、私が破滅的な行動を取らないという何の「保証」もなかったのです。ところが、この「状況」に目眩を覚えて前後不覚となった私は、何と「階段」から足を踏み外して転がり落ちてしまったのです。私の「意識」は、暗く深い「闇夜」に消えて行きました。次の「夢」が開いたのは、前の「夢」で予告された、あの「角」の手前の石畳の冷たい「感触」からでした。朝焼けの仄かな「弱光」の下、私は角の取れた丸い「玉石」にそっと耳を押し当てていたのです。「玉石」の深奥から聴こえる静寂の「歌声」は、私を魅了して止まないものでした。それは、静寂という「音」ではなく「声」だったのです。そして、その無音の「歌声」は無言の「幻影」となって、私の側らに近付いて、一粒の「種子」を置いて行きました。やがて、その「種子」は、私の「意識」の中に宿り、大きな薄紫色の「花」を咲かせたのです。優しく慈しみに充ちた「色彩」が、私の「脳内」に拡がりました。私の「内部」で増殖した「不安」は、その「色彩」の美しさに吸い込まれて行ったのです。私は起き上がって、あの「角」を曲がりました。そこで、私が視たものは、石造りの「階段」と、その頂上に燦々と輝く「太陽」だったのです。そこには、私の「可能性」を超越した世界への「信頼」と、それを支える自然の「摂理」が存在しているように視えました。あの悪魔的な「自由」が持つ偶然性に襲われることもないように思われたのです。
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by artbears | 2013-09-30 19:57 | 哲学

老いた林檎の木に空いた洞と暗闇に光る梟の眼、又は十六夜の月夜と宝石のような夜景

河川の存在を感じさせない平原には、至る所に「溜池」が点在している様子が、この標高1000mに近い山の頂からも見張らせたのです。そして、それらの地上にばら撒かれたガラスの破片のように視える「水面」には、十五夜の満月が一つひとつ平等に嵌め込まれて、美しく写し出されていたのです。そして、それらの「溜池」の側らには、必ずと言って良いように、風雨に耐え忍び「何か」を守り続けて来た「雑木林」が存在しているはずなのです。山々は北の方角に連なり、海洋は南の方角に拡がるという単純明快な位置関係が、この古からの「文明」の薫り湧き立つ「都市」の、安定した秩序感覚を醸し出していることは間違いなかったのです。何羽かの「漂白者」が「雑木林」から飛立ち、銀色に輝く「水面」に黒い影を落とし、林檎の老木に空いた「樹洞」を目指して一直線に飛翔するという「光景」が、私の脳裏の「暗闇」から浮び上がったのは、夜の帳が下りる時刻、即ち「月」が左手より顔を覗かせる頃合いだったのです。「漂泊者」とは、実はミネルヴァの「梟」であり、彼らが「哲学者」に譬えられるのは、その「風貌」からだけではなかったのです。彼らは、「太陽」を直視することを避けて「月」の間接性を好み、昼間には「雑木林」の木陰で惰眠を貪るかの「風情」を見せるのですが、夕暮れ時になると突然に「カッ」と眼を見開き、林檎の老木に創った孤高の「巣穴」に戻るといった「習性」の持ち主だったのです。しかし、彼らの「存在」があってこそ、林檎の樹立は「ハタネズミ」などの害獣から「新芽」を守ることができ、林檎の「果実」は真っ赤に実って収穫の時期を迎えることができることも、深く隠された「事実」だったのです。私は脚立を林檎の老木の側に立て、「樹洞」を上手に利用して作られた「巣穴」を覗き込みました。すると、その「暗闇」からは、鈍い光を放つ十個の「光源」がぼんやりと見えて来たのです。それは恐らく、生まれたばかりの五羽の「梟」の眼球に違いなかったのです。それはまるで、「真理」の森に積もった落葉の下の「暗号」のように、深く隠された「真実」を宿した、邪心や虚栄心の欠片も感じさせない「眼」だったのです。私は、私の「偽善」と「欺瞞」を照らし出すかのように光る、それらの「眼」を凝視することにより、逆に「理想」とすべきものが写し出されていることに気付いたのでした。そして、あの子供の頃の無邪気さと「何か」に夢中になる真剣さこそが、自らの「成熟」には欠かせないものであることを悟ったのです。そして「救済」への道は、暗く濁って流れる「河川」には無く、明るく澄んで穏やかな自らの「心」の中に見えたのです。やがて十個の真円に近い眼球は、各々が重なり合うことによって複合的な一つの球体となり、私の脳裏の「夜空」に浮び上がる十六夜の「月」と入れ変わりました。それは、満月が欠けて行く「過程」においてこそ、逆に「完全」なるものが観念的に捉えられるという意味で、満月よりも「風情」があると言えたのです。花は盛りに、月は隈なきをのみ観るものではなかったのです。そして、私たちはと言うと、背中に「月光」の青白い気配を感じながら、敢えて「川端」を大きく迂回しながら、古からの永遠の「水流」を跨ぐように架けられた、この「大橋」を渡ろうとしていたのです。見上げると、やはりそこには十六夜の「月夜」が、私たちに覆い被さるように存在していました。そして、風雲たなびく雲間に、十六夜の「月」がほんの一瞬でも顔を覗かせることを願っていた私たちは、物狂おしいまでに鮮烈に照り輝く「月」を目撃することにより、「生」の刻印が身体全体に施される「瞬間」を自覚したのです。「大橋」の欄干から「水流」を見下ろすと、それは決して途絶えることなく、そこに浮ぶ泡沫はかつ消えかつ結びながらも、あらゆる生まれ消え行く物事を、克明に映し出しながら流れていたのです。その「光景」が、私たちの脳裏の「暗闇」に消え入って行くに従って、それと入れ代わるようにして眼前に拡がった新たな「光景」の美しさは、私たちを驚愕の想いに打ちのめすことになりました。それは、この海洋に臨む港湾都市の黄昏時に魅せる「夜景」の美しさに他ならなかったのです。それはまるで、宝石箱の蓋がゆっくりと開かれる時のように現れて来たのです。「月」は右手後方より顔を覗かせる頃合いでした。そして、私たちを更に驚かせた「事実」とは、この美しさの「光源」は、あの「哲学者」たちの思索の積重ねにより築かれた「文明」の輝きと、名も無き多くの人々の人工的な「生活」の営みに他ならないと言うことだったのです。
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by artbears | 2010-09-30 20:03 | 哲学

母なる海の周期と父なる太陽の周期、一つの過ちを犯した遇者と二つの過ちを犯した賢者

波打ち寄せる穏やかな砂浜が前方に見え、そのもっと先には風打ち突ける険しい絶壁が聳え立っていたのです。あの母のように私を優しく包み込んでくれた「月」は、いつの間にか、この父のように私を厳しく突き放とうとする「太陽」と置換わっていたのです。しかし、昼夜リズムは、過去から延々とこのように刻まれ、世界の「意味」は一方的に与えられていたのです。やっとの想いで「海」から這い上がることができた私は、私の繊細なる皮膚とそれを覆う粘膜を一気に剥ぎ取ろうとする太陽の「光」を一身に浴びることになりました。そして、25時間でセットされていた私の体内時計は、約1時間、正確には50分間の短縮を強いられることになったのです。つまり私は、地球の周りを公転していた月の「秩序」から、太陽の周りを自転している地球の「法則」に従って生きることを受入れざるを得なかったのです。私には、もう「ひきこもり」が許されなかったのです。私には、砂浜から這いずり出して苛酷な乾燥地へと向う「使命」しか残されていなかったのです。波打ち際に転がる巻貝の亡骸からは、様々な「色彩」の血液のような「液体」が流れ出していました。その「液体」が、引いては寄せる潮汐リズムとシンクロして生み出す様々な「形態」は、それらの色彩の「差異」が認識されて初めて、その「差異」の相互関係があって始めて、不確定性や選択可能性と言った哲学的な「概念」が生まれることを示唆していたのです。私は、暫くの間、この自然がオートマチックに描く受動的でもあり能動的でもある「表現」を鑑賞していました。すると、その複雑系の「絵画」から、一本の「意識」を宿したような強く黒い「線」が生まれて来ていることに気付いたのです。それは、全ての「色彩」の波長を貪欲に吸収する「意欲」から生まれているのに違いないのです。そして、その「線」が自らを「環境」と区別することを欲望し、内部エントロピーの増減基準を自らで「管理」する選択主体(生命システム)へと進化しようとしていることに気付いたのです。やがて、その自由意志を持った黒い「線」は、急速に邪悪な「感情」を膨らませるようにして、次第に巨大に成長する黒い「蛇」となって、この無防備極まりない私に接近して来たのです。思わず後退りをしようとした私は、私の両足が石のように無機的で血の通っていない「物質」と化していることを視て、更に驚きを隠すことができませんでした。ところが、有機的な選択主体となった「蛇」の欲望は、今や「情報」を認識する能力を失いつつある私の「肉体」には向けられることなく、私の目の前で「とぐろ」を巻くことを決め込んだようなのです。その「とぐろ」は「クルクル」と細長い「形態」に巻き上がり、最終的には、まるで巨大な縄文土器のような「存在」となって、私の目の前に聳え立ったのです。私は、この観念論でも実在論でも捉えきれない、あたかも「神」のように君臨する存在の「実体」が知りたくて、恐る恐るこちらから接近を試みました。先ず、その縄文土器に施された文様を観察すると、「蛇」のウロコのような隠微で妖麗な艶を放っていることが視えました。次に、その文様に触れて見ると、柔肌に彫られたタトゥーのような嗜虐的で煽情的な感触を覚えたのです。私は、この縄文土器の「実体」を少しでも認識するために、あらゆる思考を試みました。しかし、断言できることは、物理学の基本的概念である物質やエネルギーに還元することができないと言うことだけでした。なぜならば、この縄文土器には、「情報」を認識する能力が備わっているように視えたからなのです。それは、エントロピーを低減しようとする「意志」が存在しているからに他なりません。私は、この巨大な水瓶の天辺にまで、「ベトベト」した粘液を両手に付着させながら這いずり上がって、恐る恐る内部を覗き込みました。するとそこには、透き通るような「液体」がたっぷりと満ち満ちて湛えられていたのです。そして、「鏡」のような水面から垂直方向に遠く遥かに深まった「空間」には、二人の「旅人」の姿が水中に起つ蜃気楼のように揺れて視えるのでした。先を急ぐ一人目の「遇者」は、自然を愛し偶像を崇拝するという過ちを犯して、静かに「視界」から消え去って行きました。次に続く二人目の「賢者」は、自然を憎み偶像を否定するという過ちを犯したにもかかわらず、未だに「死界」へと消え去ることができずに絶望の淵に佇んでいるのです。不可視の理性的な「神」も死にました。そして何よりも、この二人目の「旅人」の不幸は、元来た道を再び引き返すことができないことに在るように観えるのでした。
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by artbears | 2010-06-30 21:17 | 哲学

突如、攻勢を開始した不安定なRNA、突然変異による指揮官の変身は何を予言するのか

水際での検問を上手くすり抜けたRNAの戦士たちは、地中に重なるように堆積した地層に分散して侵入を開始したのです。CNNもBBCも、そのことの報道で持ちきりなのですが、そのことも含めてRNA側の作戦であったことに誰も気が付かない状態が続いていたのです。地中の各層には、それぞれにトンネルが用意周到に掘られていて、この作戦が一朝一夕で立案されたもので無いことは明らかでした。こうして「パンデミック」は、百年に一度の地球規模での金融危機の直後に起こったのです。トンネルの壁面からは、人間の手や足、そして口、鼻、耳などのさまざまな部分や器官が、まるで人間の内臓や血管の内壁に飾られた白いゴム製のオブジェのように突き出ていたのです。トンネルの奥の暗がりに在る水際では、定期的に処刑が行われているようでした。そのことは、日本刀が振りかざされた時に放つあの「キラッ」とした閃光と、暫くして聞こえる不気味な切断音、そして空中に飛び散る半透明で粘着性のある液体の飛沫から推し測ることができたのです。ああ、私は今夜も、とんでもない「事件」を目撃することになったのです。ああ、出来ることなら、一刻も速く、このトンネルから抜け出したいと、「意識」は救いの手を求めるのですが、如何せん、「狂気」の黒い手は、私を再び引きずり戻すのでした。RNAを遺伝子とする生物の攻勢が、あの14世紀の「黒死病」に始まる彼らのレジスタンスの歴史の古層から蘇えり、異議申し立ての行動は前触れもなく開始されたのです。豚の体内でひっそりと潜伏していたはずの彼らが、突如、凶暴なRNAの戦士に変身を決意した「動機」は、表面上は現在の世界を支配しているDNAを遺伝子とする生物にとっては、永遠の秘められた謎として、封印された「パンドラの箱」として語り継がれて来たのです。今夜も、まるで「暗黒の中世」のような熱い夜だったのです。そして、私が寝返りを打ったのが、そもそもの過ちだったと反省するのです。私はその時、水際に立って、先程までは日本刀をかざしていたはずの、そして今度は血の滴る斧を持った斬首執行人の目を凝視してしまったのです。このように、RNAの戦士たちは、自由気儘に変貌自在に変異を遂げるのです。彼らは我々とは正反対で、不安定なライフスタイルを好むのです。それは、彼らの所持する「武器」も然りなのです。我々が走り出したのは、ほぼ同時であったと記憶します。全速力で逃げようとする私は、私の内部に「危機に瀕したもの」としての「不安」(対自)が生まれ、生存という「目的」に拘束されている存在論的構造としての「価値」は明らかにされたのです。暫くして、必死で逃げることに私を忘れていた「私」は、トンネルの地面には黒いゴム製のベルトコンベアーが設置されていて、その回転のスピードに歩調を合わせて走っている「私」に気付いたのです。振返ると、中世ヨーロッパの騎士に変身したRNAの戦士もまた、私と同じような行動を取っているのでした。そして、我々の行為が「自然的自発性」に基づいたものである限り、我々を隔てる「距離」は縮まらないと判断したのです。私の「意識」は知らぬ間に、世界の諸存在についての「恐怖」から、自己についての反省的「不安」を経て、世界の命じるままに生きることの「安心」という「日常性」に復帰していたのです。ところが再び振返ると、RNAの戦士は修道士に変身しているではありませんか、そして振返る度に、皇帝、農奴、領主、魔女、教皇と目まぐるしく変異しているのです。私は、これは、「新しい中世」の到来を「予言」しているに違いないと直感したのです。そこでは、単一の「権威」が存在することを受け入れない、多次元のテンポラリーな「権力」が仮想的に散在する世界が立ち現れようとしているように思われたのです。ところが困ったことが、私の身の上に起こったのです。仮に、あの私を追跡するRNAの戦士が、全権を掌握する指揮官であったならば、いっそこの身を彼に委ねるという「選択」も在り得るのではないか、というキルケゴールの言う魅惑的で両義的な「甘い不安」が、私の脳裏に蕩けるような味覚として拡がったのでした。私は、「恐るべき自発性」に基づく、恐ろしいほど「自由」な「私」に出会ったのです。その時のことでした。隣のプラットホームに、上りの新幹線は予定通りに入線して来たのです。乗客は全員が「マスク」をしているのです。未だ「感染」していないことに絶対的な自信のあった私は、あらゆる迷いを瞬時に捨て去り、新幹線に跳び乗る決断を恐るべき速さで下したのでした。
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by artbears | 2009-05-26 12:51 | 哲学

ランニングする影法師、透明の馬は頭部を地中に埋め、腹部には卵黄色の球を宿していた

太陽は、既に月に半分喰われていたのです。しかし、「皆既日食」という「知識」が、私を絶望的な恐怖心から隔離していることの不自然さに、驚愕の想いで立ち竦んで居たのでした。「科学」は、信仰心無き私の内部においては、完全に「神」に置換わっていたのです。そして、より現実的な危機が迫っていることを本能的に気付いていた私は、先ず、太陽の位置を確認して、その川が南から北に向って流れていることを知ったのでした。次に、トラス橋は東西に跨って架けられていることから、その橋桁上を走る数名の追跡者たちは、黒く長い影を水面に投影しながら、東から西に移動していることを知ったのでした。川の西岸の河川敷に居た私は、背丈以上に成長して茂る「葦」を掻き分けながら、対岸に渡ろうと必死にもがき苦しむのですが、河口近くの角の取れた川石は「つるつる」と滑るばかりで、私の可哀想な両足は、見る見るうちに真っ赤に膨れ上がったのでした。血の臭いを嗅ぎつけた蛭たちが、次々に集まって来る気配がしました。「ぬるぬる」とした苔が付着しているに違いない川底には、鎧兜に身を固めた武士のような古代魚が、水流に逆行しながら、独り言を呟いて居たのです。つまり、私は対岸に自力で渡ることを諦め、追手からの追跡を免れることを断念したのです。「葦」の草叢に身を潜めた私は、パスカルの「人間は、自分を圧殺するものより、崇高である」と言うパンセにある一節を、何度も何度も「念仏」のように唱えたのですが、この状況を打開するのには、あまりに時代遅れの「哲学」であることを知ったのでした。私は、考え続けました。そして、結論に達したのです。例え、この世が「暗黒の世界」に転じようとも、そのことは、確かに太陽も月も知ったことでは無く、また、「神」や「科学」に救いの手を求めても、気休め以外の何ものでも無いのです。この「葦」のような存在である私こそが、その「暗黒の世界」を引き受けるしか、選択肢は無いと考えたのでした。すると、胸から飛び出しそうになっていた私の健気な心臓は、急速に心拍数を下げて、再び元の位置に収まったことを告げたのです。私は、この忠誠心の塊のような心臓が大好きで、彼女のためにも、私は生き延びる決意であることを、私のもう一人の僕である両足に伝えようとしたのです。すると、以心伝心なのでしょうか、彼は、自然に「堤防」に向って歩みを開始していたのです。気の遠くなるような年月のなかで、度重なる河川の氾濫により、自然に出来上がったと語り継がれて来た「堤防」の背後には、ダイヤモンドリングと呼ばれる光の輪に囲まれた黒く巨大な太陽が姿を現しているに違いありません。私は、「百年に一度」と言われる、この「怪奇現象」に遭遇することになった我が身の不幸を嘆かずに、むしろ、その「別世界」の有様を、この両眼で確かめることを選んでいたのでした。「堤防」を形成している斜面を這い上がることは、想像していた以上に困難が伴うものでした。不必要なものを脱捨てて、ほとんど「裸体」になった私は、足元から崩れ去る砂と格闘しながら、やっとの想いで、「堤防」の頂にある「小道」に辿り着いたのです。「堤防」を隔てた反対側の光景は、一機に視界の拡大を強要するほどの巨大な空間でありましたが、同時に、それは、とても殺伐とした世界の拡がりでもあり、鈍い鉛色の海面に、灰色の空は重々しく覆い被さっていたのです。「皆既日食」は、「第二接触」が始まろうとしていたのです。視界は一層明るさを失い、暗灰色となった空には、永遠の暗闇が続くトンネルの入口のようにも観える黒く深い穴が「ポッカリ」と空いていたのです。ランニングする影法師は、この穴から飛び出して来た刺客に違いありません。私は、「小道」の脇の草叢に身を隠して、接近して来る影法師を遣り過ごすことにしたのです。ところが、五人の刺客は、意外なことに、私には目もくれずに過ぎ去ったのです。「大物」は他に在ったに違いありません。しかし、肩透かしを喰った私には、不意を突かれるように、唖然とする光景が待ち受けていたのです。それは、逆光の銀色の世界から次第に全貌を顕かにして来ました。光を拒絶して育って来たかのような透明の馬が、四足で大地を精一杯に踏ん張りながら、その長い首を土中に埋め込んでいたのです。透き通るような首筋には、青い静脈が土中からの還流を物語り、大きく膨らんだ腹部には、卵の黄身のようにも観える球体が内包されていたのです。その球体の周りには、赤い血管のネットが張られていて、確かに、何かの胎動の予感に充ちていたのです。
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by artbears | 2009-01-31 18:16 | 哲学


ソフトマシーン・やわらかいきかいのひとりごとです
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