夢博士の独白



カテゴリ:社会( 10 )


楠木のトンネル、若葉の燃え立つ豪奢さ、黄昏の都市に響く銃声と手首で止まった時間

季節が廻り廻って何十回目かの「春」を迎えることができた、と私は感じたのです。そして当たり前のように咲いては散っていく「花木」の在り方を観て、今更のように、その律儀さと健気さを強く逞しい、と私は感じたのです。置き去りにされた「荷物」には、決して誰も手を触れようとはしない。それは、いったい何処から届けられ、何処へ届けられるというのだろうか。手を伸ばせば、裸木の梢から吹き出す「若葉」の気配に驚き、思わず手を引いてしまう。枯れた大地の殻を破ろうとする「新芽」の勢いが眩しい。確か、この「感覚」は、あの凍て付いた「冬」の最中においても、私の「内部」にも生き永らえていた。この「言葉」を介しない自然との「約束」が、毎年毎年例外なく履行されていることの紛れも無い「事実」、そのことへの疑いの無い「信頼」こそが、この「世界」の揺るぎ無い「基盤」となっている、と私は思ったのです。彼等の存在が、私の「安眠」を担保していることは明らかでした。今夜の「夢」のトンネルは長く、でも、それは苦しいものではなく、あたかも「樹木」とのゆっくりとした歩みのように感じられました。私はもしかしたら、この美しく奇跡のような生き物の「進化」の一部なのではないか、とさえ想ったのです。それほど、彼等の「存在」が身近に感じられるのも、この「春」のトンネルでの楽しみでもあったのです。足元には、真っ赤な「紅葉」の絨緞が敷き詰められていました。その先の、うっすらと光の射し込む日溜りには、私の大好きな真っ白の「百合」や「春蘭」が、まるで「異界」への道案内人のように咲いていたのです。すると、突然の爽やかな「春風」が吹き、「燭光」を束ねてさらって逃げて行きました。遠くで微かに聴こえる「潮騒」の音には、桜色に染まった「貝殻」の鳴き声が紛れていたのです。「自然」が遠くに在って、近くに感じる。私は何処、私は誰、そんな「一瞬」が届けられたのです。私は、置き去りにされた「荷物」を紐解き、永遠の眠りから覚めた「小鳥」を解放ちました。すると、楠木の「若葉」の燃え立つような豪奢さに囲まれ、それらが放つ黄緑色の「光線」を全身に浴びたもう一人の私が、楠木のトンネルの「出口」に立っているのが視えて来たのです。その「後姿」には、優しい心も卑しい心も写し出されていました。「出口」は小高い山の頂上に位置していて、そこからは「下界」が眺望できました。私は、恐怖で身震いする彼を身近に感じたのです。なぜならば、彼の「視線」を釘付けにしている「光景」とは、刻々と崩壊が進む「都市」であり、どのようなことでも起こり得る今日の「社会」の荒廃の有様に違いなかったからでした。そして、この植物的な進化の「出口」は、これから加速度的に進行する動物的な退化の「入口」でもあることを、「樹木」は静かに諭してくれたのです。と同時に、季節の折々に花を咲かせて、私を大いに楽しませてくれた「花木」が、親しい人達の「笑顔」が忘れられるようにして、「意識」の暗闇に消えて行くのが視えたのです。と同時に、あの鬱蒼とした「楠木」のトンネルも消えて無くなりました。「樹木」は伐採される「運命」を受け入れたのです。そして仮に引き返すことができても、あの「社会」に帰ることはできなかったのです。黄昏時を迎えた「都市」は、まるで荒れ果てた墓地の「夜陰」に呑み込まれて行くように観えました。何発かの連続した「銃声」が「夜空」に響いたのは、そのような危険な「時間」だったのです。私の動物的な「直感」は、誰かが撃たれたことを、私の「記憶」から何人かの「笑顔」が消え去ろうとしていることを報せたのです。しかし、それは「一瞬」の出来事であり、それがいったい誰であるのかが、いっこうに思い出せない。「名」と「顔」が、意識の「暗闇」に沈んで浮かび上がって来ない。仕方なく、その「暗闇」を覗き込んだ私は、そこに、崩壊が進むもう一つの「都市」を視てしまったのです。ビルの谷間を誰かから逃げているのか、それとも誰かを追っているのか、寡黙を装う私の「左手」には、硝煙が漂う「拳銃」が握られていました。私は、思わず心の中で「無罪」を叫んだのです。しかし彼の「横顔」には、忍耐や勤勉からは程遠い残忍で冷酷な「感情」が見て取れたのです。私は焦りました。そしてとにかく、私は何処、今は何時かを確認したかったのです。周りを見回すと、ビルの窓からは大勢の見知らぬ人達の「顔」が視えました。そして、私の左手首から外されて、右手首に付けられた腕時計の「時間」は止まっていたのです。そして、その「時間」は、私が楠木のトンネルの「出口」に立った「瞬間」と一致していたのです。
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by artbears | 2013-05-28 18:19 | 社会

崩れる赤壁と群青色の水流、ロボット修理工場のアルミのギブス、鞄の中の銀色の林檎

走れ、走れと自らを叱咤激励してここまで来たものの、さて、この八方塞の「状況」からの脱出を次の「夢」に託すことは出来ないものかと思ったのです。それにしても、あのような高所から闇雲にジャンプするなんて、あなたが言うように、私には自殺行為にしか思えなかったのです。たとえ、あの群青色の水を湛えたプールが、彼等が言うように、底無しの深さがあると信じられてもなのです。その「光景」を目撃したのは、この住宅地に侵入した装甲車の小さな「銃窓」からでした。そして、私達の置かれた「状況」が理解出来たのは、装甲車の操縦席を囲む無数の計器類が、一斉に赤色に点滅を開始した時のことだったのです。私達は慌てて、全てのスイッチを手分けして「オフ」にして回りました。ところが、その「作業」が終わって一息付くと、驚くことに装甲車は自動操縦に切り替わって、平静を装った住宅地を壊滅するというプログラムの実行を開始したのです。私達は阿吽の呼吸で、装甲車の底部にあるハッチを開けて脱出を試みました。しかし、私達の「想念」から、あの永遠に破壊行為を繰り返すであろう「無人」の装甲車のイメージを消し去ることは、一定の「期間」を要することに思われたのです。「仮眠」は浅く短く、しだいに現実との「距離」を狭めていました。破壊された住宅地の真下には、まるでネガのように存在する「裏面」の世界としての寂れた商店街があったのです。知らぬ間に、あなたと逸れてしまった私は、今やシャッター商店街となった、しかし妙に明るい「光線」に満ちたこの「空間」を、二足歩行の野良犬となって彷徨っていたのです。暫くして、ガチャガチャという金属音に気付いた私が右脚を視ると、なんとそれは、アルミ製の「義足」となっているではありませんか。そして、物陰に隠れて、こちらを用心深く観察している四足歩行の野良犬達の脚も、必ずどの脚かは「偽足」を装着していたのです。彼等の「欲望」が、私の右脚にあるのか、それとも左脚にあるのかは、判断の下しようがなかったのです。なぜならば、この「世界」とその「経済」は、実体ある需要と供給の関係性を土台とするものから、「投機」の対象となる関係性そのものが情報化され、消費される「段階」に移行していたからなのです。ともかく私は、この「我消費す、故に我在り」の世界からも抜け出さなければならなかったのです。私は、「逃亡」することが彼等の「追跡」の自動プログラムを起動させることを知りながらも、無我夢中で走り続けました。そして、なんとか駆け込むことが出来たのが、シャッターが開いていた唯一の「場所」である、このロボット修理工場だったのです。そこには、無数の人間型ロボットが、まるでカタコンベに放置された「骸骨」のように積み上げられていました。そして、その片隅の壁には、石膏で型取りされた「ギブス」が立て掛けてあったのです。その傍らの床には、真新しい「包帯」が投げ捨てられていました。それらの「光景」の意味するところを理解した私は、居ても立ってもいられなくなって、深く長い霧中に再び迷い込むことになったのです。ところが、この乳液のように白濁した「世界」が透明性を帯びるには、百年河清を待たなければならないと思っていた私の眼前に、突然、その巨大な「壁画」は姿を現して来たのです。「壁画」の支持体は、無数の多様なブロックから構成されていて、そのこと自体からは、異質性や対立性を許容する、土台としての一体性が確認されました。しかし、「壁画」そのものはどうかと言うと、描かれた「内容」には意味がなく、構成要素の相互の関係性や脈絡性も失われていたのです。それは、「我信ず、故に我在り」とした組織原理で辛うじて延命して来た「社会」の崩壊が描かれているように思われたのです。私の「視線」は眼下に移動しました。すると、壁画は「赤壁」となって、あの群青色の水を湛えたプールと水源を同じくした、この「水路」の濁流を堰き止めていたことが判ったのです。そして、「赤壁」の崩壊が進むにつれて、「水路」の水位は低くなり、その「水底」からは様々な未来の「遺物」が姿を現して来ていたのです。その中には、あの破壊兵器と化した装甲車も視えました。私は、この「赤壁」が決壊する前に、なんとか「対岸」に渡り切らなければと考えたのです。なぜならば、対岸の断崖に沿って走る「細道」には、アルミ製の松葉杖と重たそうな鞄が置かれ、その鞄の中には、銀色に光り輝くたくさんの林檎が視えたからなのです。「赤壁」に飛び移った私が、群青色の「水流」を視下ろした瞬間、私の「夢」は霧中に夢散して行ったのです。
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by artbears | 2012-11-29 19:09 | 社会

滑空するトンビと威嚇するカラス、川床に置かれた飛石、北方からの抑制された光と影

北方に位置する「山脈」から湧き出る源流が束ねられて「河川」となり、この「中洲」の下流で合流して、そのまま南方に位置していた「湖沼」へと流れ込む、それを東西に位置する「丘陵」が取り囲むという「背山臨水」の設計思想が、この「都市」に独特の清涼感と安住感をもたらしていたのです。突発性の「烈風」に平手打ちを食わされたのは、そのような「場所」でのことでした。北方からの「水圧」を押し返すように吹き付ける南方からの「風圧」は、それが何等かの「変化」の前触れであることは、先人から語り継がれて来たことに違いなかったのです。風雲急を告げるとは正にこのことなのかと、私達は思わず顔を見合わせたのです。「上空」では、黒く青みのある濡羽色をした「翼」を大きく広げた数羽のカラスが、集団パニックとなって旋回を始めていました。「不吉」な予感が通り抜けたのです。「中洲」の南端まで辿り着いて居た私達は、北端まで引き返すという選択肢を捨て、「川床」に規則正しく置かれた「飛石」を伝って、西側に位置する「河川敷」に渡る「判断」を阿吽の呼吸で下したのです。ところが、私達の飛べる「体力」の消耗は著しく、飛ぶべき「距離」は相対的に増幅して感じられるという「関係性」に、立ち往生せざるを得なかったのです。しかし、残された「体力」を引き返すことに消費すべきでないという、私達の「認識」は一致を見ていました。上流からの「水圧」は増水という現実的な「脅威」となり、「飛石」は様々な動植物の避難の「場所」となったのです。しかも、その「飛石」自体が規則性を失った、ランダムで相互にバラバラに配置されたものに「変化」してしまったのです。アオサギは彫刻のように微動すらしない姿勢で、何かを凝視していました。連れ添いと逸れたオシドリは、やはり「絶望」の面持ちで、遠くをぼんやりと眺めていたのです。彼等の「諦観」の念に染め上げられた「視線」には、ある種の仏教的なニヒリズムの「影」を視て取ることも可能でした。そして、次に飛び移るべき「飛石」を探しあぐねていた私達が出合ったのは、胴体が褐色と白の斑模様の羽毛で蔽われ、黒褐色の隈取から鋭い「眼光」を放つトンビの「目」だったのです。そして彼は、何等かの「確信」を得た面持ちで、南方からの「風圧」を読み取り、上昇気流に上手くタイミングを合わせて舞い上がったのです。残された私達は、「羨望」の眼差しで見上げるしかありませんでした。「上空」では、尾羽で巧みに舵を取り、仲間達と程好い「距離」を保ちながら、「輪」を描いて滑空する様子が視えました。ところが、その「光景」を、営巣への侵害行為と見做したカラスは、威嚇の「怒声」を発しながら、集団スクランブルの態勢に入ったのです。守るべきテリトリーに対する「認識」の相違によって、かくも「集団」と「個体」の取るべき行動様式が異なるものかを想いながら、そして、これから繰り広げられるであろう「空中戦」の結末を想いながら、今夜の「夢」のカーテンは一旦閉じられたのです。私が、その建物の「窓」から射し込む「光」と「影」を視て、「意識」が目覚めるきっかけを掴んだのは、十四夜を経た「夢」のカーテンが再び開かれたからでした。外部が堅牢な石積みで内部が硬質な木材で造られた、この資本主義の「歴史」を体現しているかのように観える重厚な「建物」には、北方からの極めて抑制された「光」が射し込むように設計された「窓」が在りました。百年の年月を経た「現在」においても、この資本主義の夜明けを告げた「光」は、この「窓」から静かに射し込んで、その「精神」に巣食った「影」を、美しく磨き上げられた「床」に白々しく映し出していたのです。信用、信頼、信義と言った「善」なるものが、インスタントでどこか詐欺擬いの怪しげな「善」に置き換えられているように視えたのです。「労働(人間)」を商品と見做して、「資本(富)」の最大化と偏在化を進めた経済モデルの転換が求められているのです。私は、この蛻の殻となった「建物」の内部を「窓」に向かって歩き、そこから改めて、この「古都」の中心を流れる「河川」を眺めることにしたのです。そこには、心なしか無常の「風」が吹いているように感じられました。そして、もう少し上流では、あの「飛石」が、何ごとも無かったかのように日常の「風景」に溶け込んでいるに違いありません。そして、何よりもの救いである「光景」は、少なくともこの「河川敷」においては、あの邪悪の「陣営」の走狗であるカラスの姿は無く、テリトリーに対する抑制された「認識」を共有したトンビが、その「制空権」を維持しているように視えたことだったのです。
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by artbears | 2012-05-31 21:35 | 社会

空港と抜け堕ちる天、坑道と崩れ落ちる地、逃げるように立去る政治家と立止るハイエク

もはや「欧州」行きの飛行フライトの案内は、やっとの想いで辿り着いた「空港」の電光掲示板からは消去られていたのです。その代わりとの説明もなく、ただ「危機」と「不安」を煽るかのように表示されている「数字」は、どうやら直線的に下落を続ける「株価」と「通貨」に関する情報のようでした。出発ゲートへの上昇エスカレータは無人で回転を続け、到着ゲートからの下降エスカレータは「仮面」を次々と取り替える「政治家」を運んでいたのです。そして、彼等の口々に発する信用、責任、改革といった「言葉」が、空港ロビーに虚しく響き渡っていたのです。私には、それらの「言葉」の背後には、実体経済と乖離した「虚偽」の信用創造があり、インフレを誘発しないように「資金」を小出しに供給しながら、いずれ債権放棄を国際政治の場で遂行しようとする「意図」が見え隠れしているように思われたのです。「会議」は踊り、「茶番」は終わり、かつては「救世主」として嘱望された「政治家」でさえも、その「見識」に似合わない「内容」のメモを読み上げ、逃げるようにして立去る姿を「衆目」の下に曝したのです。信用不安の「空気」は一気に世界に「拡散」したのです。ことの要諦は、誰が最終的な責任を負うかであり、そのことを棚上げにした狩猟民族的食い荒らしの金融メカニズムは「終焉」を迎えているのです。取り返しの付かない「事態」が進行していることは明らかでした。空港内のチケットカウンターの前には、大勢の人々が列を成し、当てもない最終フライトの「予約」に最後の望みを託していました。そんな時の事でした。私の買い換えたばかりの情報端末に、あなたからの「気を付けて、天が堕ちるわ」というメールが届いたのです。操作方法に「習熟」していない私は、すぐに「返信」することを諦め、本能的に身の安全を優先する「選択」をしたのです。私は「地」へと導く「坑道」を偶然に見付け、危機一髪、まさに青天の霹靂、「空港」は上部建屋から「瓦解」を開始したのです。「天」は抜け堕ちて、私の「憂慮」は杞憂には終わらなかったのです。一息付いた私が「坑道」を暫く歩くと、この「空間」は決して「虚飾」を追ったものでなく、ある種の温もりと穏やかさの「空気」が残っていることに気付きました。石造りの水路に流れる「水流」はあくまでも無色透明で、それらが長い年月をかけて「浄化」されて来たことは、一目瞭然だったのです。私は再び歩みを続けました。すると、東西と南北の「坑道」がクロスした部分が、卵型の吹き抜け構造になった「十字架」のような「空間」に出会ったのです。その「天井壁画」を見上げた私は、思わず「感嘆」の声を上げてしまいました。ありとあらゆる「鉱物」の「実質」そのものが色鮮やかに発色し、見事な「色彩」となって自らの「存在」の確かさを示していたのです。そして、目も眩むような高さに造られた人工の「天」には、もはや私の現実感覚ではファンタジーとしか観えないのですが、しかし確かな秩序感覚を備えた神々の「物語」が、創る者の「精神」と創られる物の「内容」の合一した「実体」ある「絵画」として描かれていたのです。そこには、揺ぎなき超越者への「信仰」と為政者の成すべき「正義」が、一欠片の疑いもない「確信」を持って描かれていたのです。そんな時の事でした。私の情報端末に、あなたからの「気を付けて、地が落ちるわ」というメールが届いたのです。私は、今回も「返信」を諦め、冷静かつ迅速に身の安全を優先する「選択」をしたのです。仮に、この「空間」が伝統的な「聖堂」であったならば、神秘的な光に包まれた深奥部に構造的に強固な「祭壇」が在るはずなのです。私は、夢の中の「神の国」を駆け抜けることにしました。すると申し合せたように「天井壁画」は崩落を開始し、物質的な破片とともに、荒廃、略奪、殺戮といった凄まじい「映像」の断片が降り注いで来たのです。独裁体制は倒れたものの、その後に生まれたのは国家秩序の崩壊であり、耐え難い混乱と無政府状態だったのです。私は、「絶望」の面持ちで「天」を見上げました。すると、この「世界」の下部構造の「天」の裂目から、その上部構造の「地」の割目を通して、あの崩壊した「空港」の上方に広がる「冬空」を垣間見ることが出来たのです。それは「衆愚政治」が招く、事実上の国家のメルトダウンを「予告」する不気味な「黒雲」の漂うものでした。私は、前方の最後の避難場所である「聖壇」を見遣りました。そこには、この出口なしの「状況」においても、それでも「社会改革」を進めるには、「市場」の規律の活用を説いたハイエクの立ち竦む姿が視えたのです。
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by artbears | 2011-11-27 16:43 | 社会

谷間に移動した暗雲、台風から黒うさぎへ蜘蛛へと移動した目、眼下に視えるTVと花園

ああっ、やっぱり引き返すべきだったという後悔の念が、私を襲ったのです。この足元のリアルな「絶壁」と遥か彼方に視える蜃気楼のような「対壁」との間には、途方も無い空間的な「距離」が存在していると思われたのです。気の遠くなるような歳月の堆積が織り成すストライプ状の「地層」には、幾度かの「変革」の時代を経ながらも変わらぬ、この国の拠って立つどうしようもない「構造」が描かれているように視えたのです。あちらに渡っても同じであろう、その他人事のような諦観の念が、私達が共有する「空気」として漂っていたのは、確かなことでした。そして、仮に「対壁」へと渡るならば、途方も無い時間的な「距離」が存在していると思われたのです。私はいつものように、この「絶壁」のエッジまで歩み寄り、この「絶望」のナイフを心に突き刺して、成す術もなく引き返すことを繰り返していたのです。しかし今夜に限って、このエッジの周辺に放置された「TV」からは、アナログ放送の終了を告知する「音声」が断末魔のように鳴り響き、デジタル合成された「台風」の「画像」が、クルクルと渦巻きながらモクモクと巨大化する「雨雲」となって、画面から溢れ出していたのです。エッジに起立する無数の「TV」は、大型の表示機器に成り下がった「運命」を怨んでか、気の遠くなるような深い「谷底」を目指して、次々と身を投げ入れていたのです。「放送」は、「ネット」という新しい技術による外部侵略を受けて、「システム」としての消失の危機に瀕しているのです。「時間」は、「空間」がそうであったように、デジタル技術による解体と再編成という情報化の「過程」に入っているのです。社会の「底流」での根本的な「変革」が進行しているのです。と、「夢」の中のもう一人の私が預言者の如くつぶやきました。ああっ、やっぱり抜け出すべきだったという悔恨の念が、私を襲ったのです。しかし時はすでに遅かったのです。私の「脳内」で発生した「台風」の巨大な「目」は、私の様々な「妄想」を左巻きの「渦」に巻き込み、私の様々な「器官」から流出させながら、右方向への「進路」を取り始めたのです。そして、その増大する「妄想」の「暗雲」は、「TV」から吐き出された「雨雲」と一体となって合流し、この「谷間」を埋め尽くすことになったのです。そのデジタルとアナログの混然一体となった「大海原」を前にして、私が躊躇することなく最初の「一歩」を踏み出せたのは、「絶望」から与えられた勇気と大胆さがあったからに違いありません。つまり、この国の「どん底」を知るも良しとしたのです。ところが、私が意外に思ったことは、その足元のリアルな「感触」が、何ら日常の「不安」と本質的に異ならない不安定で底無しの恐怖感を「土台」にしているということでした。ただ、想像を超える「夢想」ならでは出来事としては、そこには、長いフサフサとした毛並みの「黒うさぎ」が生息していたということなのです。しかも彼等は、飛び跳ねることにリスクが生じる「環境」で進化したこともあってか、直立歩行を「日常」としているように思われたのです。しかし何と言っても、彼等の巨大さには驚かされてしまいました。それに、彼等がそもそも肉食系であるのか、それとも草食系であるのかといったことも、私の「脳内」で肥大化する新たな「暗雲」として急速に浮かび上がっていたのです。彼等の「目」は真っ赤に充血していました。私は私の「不安」を外在化するのですが、その外在化された得体の知れない「怪物」は、今後は私を「不安」のループへと引き込むのです。私は思わず、「希望」の象徴である「青空」を見上げました。するとそこには、「蜘蛛」の形を模して造られたロボットが、8本の足で「青空」を覆うように立っていたのです。そして、その足の付け根の部分には、モニターの役割を果す「TV」が、まるで世界を観察する「目」のように取り付けられていたのです。時刻は真夜中の3時を過ぎた頃だったでしょうか。私は、傍らに置かれたリモコンを見付けて、なぜか「奇跡」が起きることを確信してスイッチを入れたのです。すると、ヴォーンという機械音とともに鮮やかな「映像」が立ち上がり、そこには、「台風」の接近による暴風雨の中にあっても、明るく健気に逞しく、逆境に立ち向かう「なでしこ」の姿が映し出されていたのです。私は思わず、「絶望」の象徴であった「谷底」を見下ろしました。するとそこには、廃棄処分されたはずの無数の「TV」が整然と設置されていて、それらの画面にも、野草の「花園」が一面に広がっていたのです。そこには、「希望」から与えられる勇気と大胆さが咲き誇って視えたのです。
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by artbears | 2011-07-28 20:33 | 社会

稲妻が光ったとの錯覚、豪雨又は黒犬に追われることの幻覚、壊れた世界を拒む青き人々

地下鉄が地上に出るや否や、バケツをひっくり返したような「豪雨」が、まるで鋼鉄の「鋲」が車両の上部に撃ち込まれるように降って来たのです。車窓から垣間見た「夜影」に、一瞬の稲妻が走ったかのような「錯覚」を覚えたのは、その「瞬間」が取り返しの付かない「過去」の出来事となり、もはや永遠に再現の出来ない「世界」に移行してしまったと気付いたからなのです。「過去」は一瞬で消えて無くなり、新たな「現在」が次々と消費されて行くのです。しかし、電気の消えたビルの何処かの窓ガラスには、稲妻の「光跡」がアリバイとして残っていないとは、誰もが言い切ることは出来なかったのです。ならば、ビデオテープを逆戻しするようにして、この「電車」を逆走させることにより、私達は「過去」を検証しながら生きるという「知覚」を発達させることが可能だったのかもしれないと想ったのです。私達の知覚システムは、あまりに蓄積された「文化」に負うところが大きいと思ったのです。こうして私の「意識」は、いつものように「想像」の翼を自由に羽ばたかせて、物理的な制約の無い「軌道」を走る「電車」へと飛び移ったのでした。車両の電源は一度落ちて、車内には再び「光源」が呼び戻されました。愛しの青き人々は、何も描かれていない7枚の「絵画」を、恥ずかしそうにして差し出したのです。車両の上部からは、あの謎めいた「黒犬」たちの「足音」が聞こえて来ました。「豪雨」は「黒犬」となって、執拗な追跡を諦めることはなかったのです。たくさんの白い手が、これらの「絵画」を鷲掴みにしようと伸びて来ました。緊迫した「状況」は、本能的な「選択」を求めていたのです。私は、最後に残った「絵画」を選ぶべきかとの戸惑いもありましたが、青い滲みの「色跡」が限りなく美しい一枚の「絵画」を選んだのです。それが「幻覚」であったとは、誰もが異議申し立ての出来ないプライベートな出来事だったのです。すると、脱力した白い手は、掴み取った全ての「絵画」を一斉に床に落としたのです。そして、白紙であったはずの「絵画」には、あの憎々しい「黒犬」の「足跡」がプリントされていたのです。「意味」の連鎖が断たれていることは明らかでした。そもそも、私にとっての「問題」とは、あの青き人々が何処に消えてしまったかにあったはずなのです。そして、この「電車」が既に制御能力を失い、規律無き「暴走」を開始していることは間違いなかったのです。私は秘かに、例え次の「駅」が見知らぬ「場所」であろうとも、青き人々を探し求めるべきであるとの「決断」を下していたのです。電車の扉が開くや否や、私は速やかに、ホームに転がり込むようにして「脱出」を敢行しました。節電のためなのか、エスカレーターは停止した「状態」にあったのですが、それが故障のためであったかの「判断」は難しいものでした。なぜならば、この「駅」全体が「廃墟」と化しているようにも見受けられたからなのです。そして、私がもう一台のエスカレーターを徒歩で降りようとした時、私の知覚システムが報せたのは、この「駅」が、かつての愛しの青き人々との思い出の「場所」であったと言うことだったのです。外に出ると、バケツをひっくり返したような「豪雨」は、やはり降り続けていました。「黒犬」は「豪雨」となって、執拗な追跡を諦めることはなかったのです。傘も無い、光も無い、車も無い、まさに「荒漠」としたアナーキーな「世界」が待ち受けていたのです。そして、この「場所」が既に統治能力を失い、秩序無き「崩壊」を開始していることは間違いなかったのです。7枚のレコードジャケットが私の脳裏に浮かび上がったのは、ちょうどそのような「状況」の中でのことでした。私は「豪雨」に対する恐怖の「感覚」をすら脱ぎ捨てて、あの「音楽」の館を目指してひたすら走ることにしたのです。そして、レンガ造りのビルの鋼鉄製のドアの横に在る「飾り窓」には、7枚の「音楽」が7枚の「絵画」と一体となった「芸術」として残っていたのです。私達は、ドアを恐る恐る開けて見ました。すると、あの「時代」の懐かしの「音楽」が、私達を優しく迎えてくれたのです。真空管式のアンプと英国製のスピーカーが奏でる「音楽」で溢れた「空間」は、まさに現代の「桃源郷」と呼ぶに相応しいものでした。そして、ディランの「知性」やアイラーの「聖性」、そしてコルトレーンの「信仰心」にすらも、私達の「精神」に真摯に語りかける「真実」が存在すると信じられた「時代」が蘇って来たのです。そっと、胸ポケットに忍ばせた「絵画」を取り出した私は、そこに、あの愛しの青き人々の屈託のない「表情」を確認することが出来たのでした。
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by artbears | 2011-06-29 21:17 | 社会

存在しなかった惑星、存在したはずの水没した山野、遺伝子のように淘汰された社会規範

私たちを驚かせたのは、水墨画のような古色奥ゆかしいモノトーンの世界が突然、眼前に拡がったということではなかったのです。むしろ、その世界を、より神話的な美しさに変換して映し出しているエメラルド色の「湖面」の清らかさにあったのです。そして、その「湖畔」には、きっと「初秋」になると、雨後の薄くけぶった「しっとり」とした「大気」に包まれるようにして、真紅の曼珠沙華が狂ったように咲き乱れるのでした。自らの表象意欲を消し去り、ただ「静寂」という「言葉」のみに呼応するかのように視える「水面」には、時折、「春風」が吹き抜け、そのフラクタルな波紋が次々と生み出されて行く様子は、まるでモーツアルトの音楽のような嫌味の無い、心地良さを、私たちの網膜に光波の旋律となって伝えてくれるのです。その波紋を無邪気に追いかけるようにして形成される白メダカの群遊する様子は、かつて、この社会の隅々にまで浸透した純粋無垢なる「精神世界」が、決して緊張を強いるものではなく、実は、いかにのどかで穏やかなものであり、「実体性」に根拠が置かれていたものであったかを象徴的に語っていたのです。白メダカの群れが目指す方向に自然に目が惹かれた私は、そこには、同じような個体数の茶メダカ、それよりも少ない青メダカ、さらに少ない黒メダカの群れを確認することが出来ました。つまり、メダカの「集団」を、メダカの「色」を決定する4色素胞(白、黄、紅、黒)の遺伝子上の「情報」の「分散」という観点から眺めたならば、この「集団」には、この「社会」に固有の、しかも一定の統計学上の蓋然性に基礎付けられた「調和」が存在していることが観て取れたのです。そこには、個体間の争いしか含意しない「生存競争」という「言葉」とは無縁の、お互いがお互いを支え合った、「和」を以って貴しと為すとした「秩序」が存在していることが観て取れたのです。しかし一方では、「色」の違いという表現形質の「多様性」」の裏には、「個」としてではなく「種」としての、来たるべき「環境」との存亡を賭けた闘いへの遺伝子戦略が、したたかに準備されていることも見逃してはいけないことなのです。斯の如く、この世界のあらゆる生物は、生存が許される「環境」が続く限り、「変化」に臨むことは回避され、保守的で協調的であろうとするのですが、一旦、生存が危惧される「環境」が到来したならば、システムとしての「種」の存続に向けた、あらゆるプログラムの可能性が試みられるように設計されているのです。それは、「社会」においても同じはずなのです。私たちは、この喪失したものへの郷愁と懐古の情を掻き立てる「原景」を眺めながら、私たちの「社会」の行く末を案じていたのです。すると、私たちを再び驚かせたのは、兎追いしかの山・小鮒釣りしかの川と「童謡」に歌われた、あのメダカの生息した故郷の「山野」が水底に見え隠れしていたことでした。そして、水没して荒れ放題となったかつての「美田」の面影は、まるで亡霊のように、水中で宙吊りにされて揺らいでいたのです。私たちを更に驚かせたのは、水没した「家屋」の周辺を緑色に光りながら虚ろに泳ぐ、GFP・遺伝子を組み込んで創られた蛍光メダカの、何とも不自然な悲しみを帯びた「姿」でした。その突然変異のメカニズムからも逸脱した、まさに「神」をも冒涜した人工的な「異景」は、無制限の自由と個人主義的な無秩序によるホワイトノイズの世界の「現景」を映し出していたのです。「社会」もまた、「生命」と同じように「死滅」というカオスの淵にあって、フラクタルな「秩序」を形成しながら「進歩」、願わくば「進化」の歩みを止めるわけにはいかなかったのです。つまり、現在の「社会」において、「生命」における「遺伝子」に相当する「社会規範」が、「弱肉強食」、「優勝劣敗」といった「言葉」で表現される熾烈な競争的「環境」において、その「情報」としての優位性を継承(コピー)することが出来ずに、次々に淘汰の憂き目に会っているのです。私たちは再び、「神」にもすがる想いで「水面」を視つめ直しました。すると、季節は「中秋」まで幾ばくかの日数を残していたにもかかわらず、そこには、真黄の「月」の非実体的な「姿」が、フラクタルな水紋に揺らぎながら映し出されていたのです。しかし、そこにはもはや、あの餅つき兎も三月兎も、そして狂人と月の物語すらも、忘れ去られるべき「情報」として「記憶」のファイルから消されようとしていたのです。そしてかつて、羨望の眼差しで仰ぎ見た理想の「惑星」も、もはや存在しなかったものとして、永遠にこの「水面」には映ることはなかったのです。
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by artbears | 2010-07-29 19:14 | 社会

賽の河原のクリムゾンレッドの犀、山頂からの石蹴り、または角に目掛けて放たれた小石

山道の大きな曲り角を右にカーブを切ると、突然、楠木の大木が視界に現れて来たのです。その大木の根が瘤のように隆起した部分は、まるで「地蔵菩薩」の頭部のようにも見えるのでした。そして、そうした大木の根元には決まって、小さな行き場を見失った子供たちの「魂」が、そっと寄添うようにして集まっているものなのです。それは、それが大木ではなくて、どうしてこのような巨石がこのような場所に在るのであろうか、と「ふっ」と考え込んでしまうようなシチュエーションにおいても、目撃してしまうことなのです。私は愛用の赤いスポーツカーを路肩に止めて、広葉樹の葉っぱで出来た緑のトンネルに従って、腰の高さまである熊笹に隠れてしまっている「獣道」を探りながら、河原へと下っている傾斜面を慎重に降りて行ったのです。けたたましい烏の鳴き声の後には、抜け落ちた黒い羽が「くるくる」と回転しながら舞い降りて来て、その光景は、まるで黒光りする「焼夷弾」が天から降り注がれているようでもありました。私の両腕の皮膚を視ると、羽毛を毟り取った後の鳥の肌のように、小さな突起物が「ポツポツ」と生まれ、それは、まるで体内の恐怖感や不快感と言った感情の「噴火口」のようにも見えるのでした。私は更に、私の身体の60%が「水」で構成されているという事実を思い、これらの感情も、この「水袋」の皮膜の表面に浮かび上がって来ては、「出口」(エントロピーの低下)を求めて漂っている存在のように想えたのです。ならば、私が山道を登ることを止め、車を降りて、河原に出ようという「意思決定」をした背後には、どのような「化学的代謝反応」が起こったのであろうか、と自問してみたのです。しかし、科学的思考の不得意な「運命論者」である私の自答は、何か(小さな魂)を「透視」したことが、私の「意思決定」に何らかの影響を与えたはずだと言う、相変わらずの論理性の欠如したものでした。そして、それは釈迦の説いた「因果倶時」(原因と結果は必ず一致する)の観点からも、単なる「条件反射」的行動のように思われたのです。やがて、緑のトンネルの「出口」が前方に見えて来ました。そこからは、擦りガラスを通したような濁った光が差し込んで来ているのですが、それは、「出口」の先の世界が、決して心地良さを保証してくれるような「場所」ではないことを予感させるものでした。なぜならば、「焼夷弾」は、この河原をかつては「火の海」と化したに違いないと言う、これまた何の情報的根拠もない「先入観」が、私の脳の80%を構成している「水」の深層から「ゆらゆら」と浮上して来たからなのです。そして驚愕すべき事実とは、私の身体の大部分を構成している「水」ですらも、一年間でほぼ完全に入れ換わっていると言うことなのです。つまり、少なくとも物質的に同一の「私」は存在しないと言うことなのです。私は、フーコーの言った「人間の死」は現実に起り得ることであり、私の「鳥肌」という「果」に対する「因」の種(悪)は世界中にばら撒かれていることを知ったのです。一方、私の体内においては、「文字」や「映像」と言った「不変」のものたちが対流を開始していました。そして、それらの「情報」は、「自我」のさらなる発展した「私」を形成し、そうしたバーチャルな「私」がWeb上での他者とのコミュニケーションを欲しているのです。私は、人間の「本質」が「情報」により赤裸々にされる現実に身震いしながら、「賽」の河原に辿り着いたのです。そこで、私が目撃したものは、クリムゾンレッドの「犀」が、子供たちの「魂」が小石を積上げて造り上げた「石舞台」を、その体毛が変化して出来た巨大な「角」で崩しているという光景だったのです。その姿は、「赤鬼」のようでもあり、この世の生物の系統樹からは逸脱したような神秘さと奇妙さに満ち溢れたものでした。そして、あの巨石で出来た「石舞台」が、小石を積上げて出来たピラミッドの頂点で揺れながら存在していることも、奇跡的な出来事だったのです。「石舞台」の上では、子供たちの「魂」が右往左往している様子が、この少し離れた安全な「場所」からは観察出来ました。そして、一つの「魂」が一つの小石を蹴ったことから、事態は新たな進展を迎えたのです。無数の小石が頂上から転がり落ちて、「犀」の分厚い鉄板のような皮膚に当って砕け散ったのです。私も無我夢中になって、小石を放ったのです。小石は一発必中を果しました。私を驚かせたことは、こちらに向かって猛然と突進を開始した「犀」の頭部には、釈迦が「犀の角のようにただ独り歩め」と説いた「角」は消え失せていたことでした。
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by artbears | 2009-06-30 19:49 | 社会

朽ち果てたかつての豪農の屋敷跡、監視人としての烏、染色体異常の白猫とサントーム

このさまざまな無国籍の家々が立ち並ぶ新興住宅地のなかに在って、もはや誰の日常性にも違和感なく溶け込んだ感のある、かつての豪農の屋敷と想われる建物に案内してくれたのは、今となっては誰であったのかを思い出せないのです。その姿は、あの班猫のように、見失うと少し先に現れて、決して後ろに現れることがなく、不可思議な世界へと導いてくれる先導役のように視えたという記憶だけが残っているのです。藁葺き屋根に後からトタンを被せたと思われる、この朽ち果てた「屋敷」の門を潜り抜けると、木枠の無いキャンバスの布地が、地面の上に無造作に敷かれているという光景に出くわしたのです。そこに描かれた「絵」は、かつてこの屋敷が栄華を極めていた頃、いかにこの「庭」が風情あるものであったかを窺い知ることができるものでした。その「絵」のなかには、真っ赤なサクランボがたわわに実った桜の木があり、その傍らには、瀟洒な黒檀の食卓と二脚の長椅子が置かれていました。そして、蛇をくわえた「三毛猫」は、第一関節から切断された右の後足をクルクルと虚空を掻くように回しながら、今にも食卓から長椅子に飛び降りようとしていたのです。手前の空間には、力強く繁茂する一株の茅が描かれ、それとは対照的な筆使いで、おそらく小さな一日花を毎日咲かせることであろう、可憐で慎ましやかな、そして無名性に徹した白い花が描かれていたのです。屋敷の四隅の「塀」の角の内側には、四本の高野槇の大木が茂り、それぞれの大木には、この屋敷内での出来事を全て把握して来たと自負している「四羽の烏」が棲んでいました。烏たちの眼は残酷なまでに冷徹で鋭く、まるでサーチライトのように、庭と屋敷の隅々までに「監視の眼」を光らせていたのです。すると、一羽の烏が声高に、「私は視た、あの猫は電車に足首をはねられようとも、決して獲物の蛇を放さなかった」と証言したのです。今度はもう一羽の烏が、「然り、だからこそ過去の絵として描かれているのではないか、他に何を望むのか」と、何度も何度も繰返されてきた会話にうんざりしたように語気を強めたのでした。この屋敷内という「小さな世界」とそのなかでの出来事が、急速にグローバル化しながら、そのボーダーという「塀」を片っ端から曖昧にしている「外界」との関係性において、最小限の経済単位としての自立の道も閉ざされていることは、烏たちには歴然とした事実として指摘されていたのです。そして、絵のなかに描かれている三毛猫が「雄」である可能性は皆無に等しいものであること、そしてこの敷地内にたむろする7匹の猫たちの被毛情報は全て「白」であるという基本的な「情報」も、烏たちからは既に報告されていることでした。つまり、庭のなかの7匹の猫たちは優性遺伝子である「白毛」のX染色体を持っていること、絵のなかの彼らの母親である三毛猫の「白斑」はX染色体の不活性化からきていること、頭のなかの彼女の父親はX染色体上にヘテロの遺伝子を持っている白毛の「個体」であるという情報を得ることができていたのです。そしてそのことは同時に、この反グローバリズムに徹した「社会」は、遺伝情報的にも自閉した集団としての運命を辿ることが危惧されているのでした。この自閉した「社会」の自開の道としては、遺伝的にも魅力的な情報を保有している「個体」が、この崩壊寸前の薄汚れた「塀」を乗り越えて、わざわざ訪れて来るという他力本願的な「奇跡」を待つことだけなのでしょうか。「否、この貧しき屋敷そのものになることだ」と、哲学者然とした三羽目の烏が言い放ちました。その断言的な口調の「言葉」が、この過去の「富」の再配分に汲々とした「社会」に響き渡るや否や、7匹の遺伝的に同質の情報を共有した白い猫たちの間に一瞬の「動揺」の雰囲気が拡がりました。彼らは、過去のメモリーと現在のファンタジーを「消費」することはできても、「富」そのものが消失して行く未来のリアリティーを「想像」することができなかったからなのです。その時のことでした。灰色の羽毛がまだ完全には生え変わっていない、四羽目の若くて醜い烏「サントーム」が飛行訓練を決意したのです。7匹の白い猫たちの間に一瞬の「期待」の雰囲気が拡がりました。なぜならば、「サントーム」がこの「塀」の内側に転落する「確率」は、彼が第一回目の飛行訓練で大空に羽ばたくことに成功する「確率」よりも遥かに高く、仮にこの猫たちを守っている「塀」の外側に転落したとしても、腹を空かせた「野犬」たちが見逃してはくれないことを知っていたからなのです。
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by artbears | 2008-05-25 18:24 | 社会

イエローブロガーと呼ばれる戦車兵は最後の仮面を脱ぎ、誇り高き山猫の素顔を見せた

このタイガーⅡ型と思われる重戦車が「赤虎」と呼ばれるのは、その燃えるように赤くペイントされたボディが風雪に耐えることにより、赤茶けた錆からできた「瘡蓋」がしだいに拡がり、燃え盛る「業火」のような模様となって全体を覆っているからに違いないと思ったのです。「赤虎」の砲台には、双眼鏡を持った戦車兵が上半身だけを出して、前方の水平線と後方の地平線を交互に観察している様子が見て取れたのです。地平線の彼方には、水分を多く含んだ雲がゆっくりと移動していることが判り、その下には、生命の楽園である深い「森林」が拡がっていることが想像できたのです。と同時に、豊かな「森林」は度重なる「砂漠」からの攻撃に領土を失い、その「砂漠」の悪魔の手は、この海と陸の境界に位置する「水際」の地にまで達していることが分かりました。そして水平線の彼方にも、あたかも同じような生命の「楽園」が存在するかのように、緑色の蜃気楼はゆらゆらと揺れていたのです。「赤虎」は、モウモウとした不完全燃焼の凄まじい黒煙をたてながら、このグローバルな地球環境の変化と加速度的に激しくなるストレスとの「戦争」から逃れようと、最後に残された聖域と想われる「森海」を目指していたのです。だからこそ、「赤虎」は躊躇することなく、未体験の海の「領域」へと突入して行ったのだと論理的に考えられたのです。しかしそのことが、水陸両用を、その設計思想として持ち合わせていなかった「赤虎」の第二の受難を招き、その「悲劇」は、まさにこの時に始まったと言えるのです。幸い、気密性は保たれていたのですが、分厚い装甲鉄板で身を固めた文字通りの鉄の塊である「赤虎」は、まるで赤い「イカロス」のように、真っ逆さまになって暗黒の「深海」へと墜落して行ったのです。深い孤独感に満ちた、シンシンとした無音の世界が、「赤虎」を一つのちっぽけな「アトム」として呑み込んでいったのです。メンバーは5人でした。彼らは、さまざまな「DNA」のメッセンジャーである生物から構成されていました。「赤虎」の内部では、この新しい「現実」に対する緊急の会議が開かれることになったのです。そこで生まれたルールとは、地上の世界においても誰しも自分のなかに複数の人格を持っていたように、時には一人が複数の人格に分裂したり、時には数人が単一の人格を合成したりしながら、生命的で親密なコミュニケーションを図っていこうというものでした。そのために、数多くの「仮面」が用意されることになったのです。つまり、この窮屈極まりない「空間」に適応するためには、それぞれのメンバーがそれぞれのDNAの「欲望」に従って行動した場合、止め処もない「悪意」の噴出する事態も想定されるとし、主体的に行動した場合の責任は「個人」には無く、「仮面」にあるとしたのです。このことは、ある意味での近代の個人主義の否定でもありましたが、連綿と続いて来た生命の歴史から見たならば、さほど異例のことでは無いという「認識」がメンバーのなかで共有されたのです。その時突然、操縦席に着座した2人の軟体動物と思しき「個体・C」が、ネバネバとした顔面に真っ白の「仮面」を貼り付けて、こちらを振返りながら合体して、お互いの「DNA」を交換し合ったのです。モニターテレビを見続けている、より高度な知的生命体と想われる「個体・H」は、ネットを通しての「映像」による外界からの情報に依存する傾向が強く、脳内にも潜むことになった病気や犯罪や戦争のイメージを反復して視ることにより、それらの「情報」が自らの血肉と化していくことに気付いていなかったのです。ここにも既に、「悪魔」の手は忍び寄っていたのです。4人目のメンバーである「個体・B」は、絶望の淵にあるかのように肩を落として、その上下の嘴の間から、プクプクと白い泡を吹き出しながら、最後の救済を信じて「般若心経」を唱えていたのです。最後のメンバーであり、「赤虎」の砲台に立って指揮を取っていた「個体・Z」は、コンピューターを前にして、ウェブ上での情報交換に取り憑かれているように見えました。「夢中」に入ることにより、自分自身を投げ出して、その先に存在する「他者」との交感に賭けようとしていたのです。そして突然、神経衰弱に病んでいるかのような「個体・H」の仮面を脱ぎ捨て、何らかの解決へのヒントを得たかのような明るい表情を魅せたのです。その笑顔には、野生の山猫の本来の逞しさがありました。悪意を囁く「悪魔」を追放することよりも、善意の連帯をもたらす「天使」の存在を信じ得る、何らかの交信に成功したに違いなかったのです。
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by artbears | 2008-03-28 19:59 | 社会


ソフトマシーン・やわらかいきかいのひとりごとです
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