夢博士の独白



カテゴリ:絵画( 7 )


窓又は暗室への入口、再現を拒否した鏡、三幅対の移動可能な空間と裸体となった人間

それらの「部屋」に入るのには三つの選択肢があると、しかしながら結局は一つであるというのが、私が下した結論だったのです。それは、それらの「絵画」は三幅対の形式を採用しているのですが、中央に位置した「絵画」から侵入して、左右どちらの「空間」への移動も可能だと判断したからでした。つまり、それらの「部屋」は、2室の対比的構造でも4室の時間的構造でもなかったのです。何れにしても、この「絵画」が閉ざされた「密室」での出来事なのは間違いなかったのです。しかしながら難儀なことには、どの部屋への「入口」にも、「視線」の侵入を撥ねつける冷たく硬い「ガラス」が、その黄金色に輝くクラシカルな「額縁」に嵌め込まれていたのです。「運命」は最初から決まっていた。私は意志を固めて、中央の「絵画」から正面突破を試みました。「ガラス」は、私を切り開く。そのことを期待していた私は、「絵画」に身を委ねて、私自身を自虐的に開いて行く。噴き出した赤い「血液」は、傷口の周辺で凝固して、やがて白い「錆び」のように変色して付着する。それは、私の「知覚」のもう一つの「皮膚」となった。表層のレイヤーとしての「皮膚」は、下層の「肉」からも「骨」からも離脱して、「絵画」の物質的なリアリティーに直接に接触することを強いられたのです。私が視たのは、人間の動物的な「叫び」でした。人間の本能的な「情動」が、「脳」への最短距離を一直線に放たれた「矢」となって、私の全身を貫いたのです。私が出会ったのは、人間の本質的な「身体」でした。感覚器官の集合体としての「身体」でした。それは、奇妙で呪われたイメージの「合成」から出来ているのですが、嘘偽りの無い真実の「形態」でもあったのです。そして、そのグロテスクで恐怖に打ち震える「身体」こそが、裸体となった人間の「本質」のように視えたのです。そのおぞましい「絵画」は、人間をして、「精神」を「肉体」から切り離し、「骨格」からも分離された「肉塊」として描いていたのです。その「絵画」は、ベーコンの計算され尽した衝撃的で猟奇的な「事件」でもあったのです。再び、何かを威嚇するような「叫び」が「空間」に反響しました。無意識の「海」に溺れかかった私は、さらに、その深層に在る「密室」に踏み入れたことに気付いたのです。「ガラス」が今度は、私を閉じ込めた。向こう側の「世界」では、人々がスローモーションで歩いているのが視える。全ては、ごく些細な出来事においても、それは「存在」で充溢している。こちら側の「世界」が見えないのだろうか、と思う。しかし、何かが「移動」するのを視ることは、決して不愉快な出来事ではない。それは、「存在」が不定立であり、二つの対比的構造にある「存在」が、お互いの不気味さを打ち消し合っているからだ。それは、時間的構造に在る「生」の曖昧さにあるのかもしれない。私は、こうした取り留めの無い「思考」を中断して、クルリと半回転したのです。すると、そこには、漆黒の「暗室」への入口としての「窓」が描かれていました。それは、一点の不明瞭さも無い、絶対的な枠組みである「死」への入口のように視えたのです。「死」は不意に「暗室」から出て人々を襲い、何食わぬ顔で「暗室」へと戻るのです。なんと力強く暴力的で身勝手なのだろう。生き延びようとする微塵の弱さも無い。このように、それらの「窓」は通路となって、三幅対の「部屋」は裏側の「世界」で繋がっているという完結した「構造」を暗示していたのです。私は「ガラス」を後ろにして寄り掛かり、「瞼」を固く閉じました。そして静かに、私自身の人間に対するイメージが現れて来るのを待ったのです。しかし、それらは全て、ベーコンの創造したイメージの引用と借用に過ぎず、不可視であるはずのものを視てしまったという「証拠」しか映らなかったのです。私は再び、「瞼」を開くことにしました。すると、驚愕の「光景」が、私の「視線」を虜にして、凍て付いた私が視たのは、恐ろしく哀れな「陶酔」に浸っている私自身だったのです。それは、思考による「観念」では捉えることの出来ない、あまりにも感覚的にはみ出した、そして、その過剰さが故に混乱に陥った、例えるならば、「移動」前の色鮮やかな「蛇」のような、そうした「不条理性」そのものだったのです。その不条理性の「肉塊」の傍らには、一枚の「鏡」が立て掛けて在りました。そこには、より激しく歪められて苦悩に耐える「自画像」が写っていたのです。しかし、その「鏡」の役割は、「現象」を正確に再現することではなく、深層に眠る人間の多義的な「現実」の可能性を写すことのように思われたのです。
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by artbears | 2013-03-29 19:27 | 絵画

水平に拡大する湖水と垂直に伸張する草木、山水に描かれた冬山、消えた春霞と鳥の声

その障壁画は、四方四季の「原則」に従って描かれていたことは明らかでした。そのことよりも、この「夜」が明らかになることを覚えないほどの「春眠」の中にあって、この「原則」が貫かれていたこと自体が、目が覚めるほどの驚きの原因でもあったのです。黄金色に輝く「客間」の四方の襖障子には、左から右へと四季の移り変わりの「情景」が、時の流れが分節された「記号」として表されていました。西方には、秋から冬への季節の下り坂の様子が、そして東方には、春から夏への季節の上り坂の様子が描かれ、北方である正面には、深々と積もる雪をかぶった「松林」が左側に、着々と開花の準備を進める「梅林」が右側に描かれていたのです。私は、依然として「春眠」の心地良さからも、「紅梅」の甘く切ない匂いからも立ち去り難くまどろんでいました。私は、夢のような「襖絵」と絵のような「春眠」の間を行き来していたのです。暫くすると、春の訪れを待つ「茅屋」から、遥か彼方の雄大なる「冬山」を眺める「視線」に、私自身の「意識」が在ることに気付きました。私は、この障壁画の「世界」に身も心も溶け入ることになったのです。私の「視線」は、極北の美とも呼べる「冬山」の稜線をなぞりながら、さらに里山を流れる雪解けの「小川」を追い駆けて、さらに平原の「春草」の息吹を愛でながら、視ることの至福の快楽に浸ることになったのです。やがて私の「意識」は、なだらかな丘陵地帯の麓に在って豊かな水量を湛える「湖水」へと流れ込みました。この水平を保ちながら拡大する「湖面」は、私の「視線」に異質の感触を呼び起こすことになったのです。それは、「液体」の物理的特性に根ざした流動化する「感覚」であり、湖水という現実的な「制約」を受け入れることによって、その枠内における一定の「自由」が担保される「関係」が感知されたのです。そこには、ある種の「秩序」が形成されていたのです。さらに私の「意識」は、湖水の上方にたゆたう気体化した物質である「春霞」へと惹き寄せられました。それは、遠くにあって裸身をさらすように聳える「冬山」を、そして、その裾野にあって周囲を写し映える「湖水」を、うっすらと覆い隠すようにたなびいていたのです。そこには、あの「牧谿」の山水画に描かれた幾層もからなる「空気」が漂っていたのです。それは、まさに気韻生動の「世界」でした。私は、この春のどこか中途半端な居心地の良さに耽溺し、春の訪れを告げる「足音」に耳をそばだてることにしました。すると、「春暁」の寒さを感じさせない眠りの彼方から、「小鳥」のさえずる声が聴こえて来たのです。その小鳥たちの何とも言えない清らかで朗らかな、純粋性の結晶のような「啼鳴」に聴き惚れていた私は、私の「意識」が私の脳内の別の「空間」に移動したことに気付きました。私の「神経」は私の「耳」に、まるで植物の根が張るようにして集中して、やがて私の「耳」は、あらゆる些細な「物音」をも聴き逃さない音響の「器」と化したのです。私の「意識」は、その巨大な巻貝のような「空洞」に移動したのです。そして、梅と桃と桜のほころびを同時に報せることになった「東風」は、最初にはソヨと吹いていたのですが、次第に風速を強めて、最後には春一番の「暴風」となって「空洞」の内部で吹き荒れました。もちろん、あの小鳥たちの「啼鳴」も吹き飛ばされたことは言うまでもありません。そして音の「洪水」は、あらゆる既視の「情景」をも消し去ったのです。しかし、艶やかに光り輝く「巻貝」のピンク色をした「内壁」の肉惑的な美しさに魅了された私は、無音の「世界」に再び足を踏み入れたことに気付かなかったのです。真っ赤な「寒椿」は音も無く落首して、その下には、真っ白の「白梅」の花びらの「絨緞」が敷き詰められていました。そこには、まるで死の「儀式」が執り行われた「場所」のような厳かな「空気」が漂っていたのです。すると今度は、「死」と「生」が季節の如くに回転するかのように、様々な「草木」が、死の「絨緞」を突き破って、刻々と垂直に伸張する様子が感知されたのです。死の「屍」の上にこそ、生の「再生」は約束されているのです。それも、まさに気韻生動の「世界」でした。私は思わず、「春眠」を妨げる勢いで拡大する不吉な「気配」を察して、その象徴である「曇天」を見上げました。するとそこには、生への「執着」が、張り巡らされたネットのように視える「枝木」と、それらの「基幹」の上にあって、実在する不在の「空巣」の中途半端な「存在」の様子が視えたのです。もちろん、あの「春霞」が消え去っていたことは言うまでもなかったのです。
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by artbears | 2012-03-31 20:33 | 絵画

咲き誇る純白の百合の花、深緑色に輝く翡翠の玉座、沈黙との会話又は光輪との出会い

邪悪な心の兆しは、あの黒い羽毛に覆われ、鍵形の嘴と屈曲した爪を持った「獣」の追跡の執拗さからも、容易に判断が出来たのです。獣達は、私の背後に「影」となってへばり付き、振り返ると、前方の生い茂った樹々の「枝木」や赤茶けた「巨石」などに瞬間移動して、その神出鬼没ぶりは、彼等への恐怖心を忘れさせるほどでありました。しかし、次第に周囲が「暗闇」に侵食されるに従って、私の「心」の奥底からは、不気味に蠢く黒い「塊」が這い上がって来るようで、それが、私の気持ちを落ち着きの無いものにしていたのです。兎にも角にも、私は一刻も速く公衆電話を見付けて、あなたに連絡を取ろうとしていたのです。しかし、それは「空港」での出来事であり、私が「森林」をどうして彷徨することになったかは、未だに永遠の「謎」に包まれていたのでした。真っ青の空を写し出した水溜りには、黒い「人影」が無言で横切り、意地悪そうな顔つきの「烏鷺」は、その「鏡面」に意味不明の「微笑」を残したのです。私は、刺々しい「茨」に行く手を阻まれながらも、一歩退き二歩進むことが、与えられた唯一の選択肢であると考えて来たのです。すると、「記憶」の宝箱から溢れ出たような高貴な「芳香」が、地面を這うようにして流れる「朝霧」に便乗して、私の鼻先を擽る魅惑のメッセージとして届けられたのです。私は、その道案内役である「芳香」に導かれて、森林の中にポッカリと空いた円形の「平地」に辿り着けたという訳なのです。私の「視界」は一気に晴れ渡りました。なぜならば、そこには、純白のカサブランカの「大輪」が咲き誇る、まさにこの世の楽園と呼べる「花園」が広がっていたからなのです。そして、私が新たな一歩を踏み出す度に、慣れ親しんだ「芳香」は神秘のヴェールに包まれた「香気」へと変化し、高潔であるとともに優美で気品漂う彼女達は、恥じらいの気持ちを隠すことなくこうべを左右にうな垂れたのです。歩むべき「道」は自然に開かれて行きました。暫くすると、壮麗なる「宮殿」と呼ぶべきか、荘厳なる「廃墟」に例えるべきか、何れにしても壮大な人工の「洞窟」が、私の前途に立ち現れて来たのです。恐る恐る誰も居ないことを願って侵入した私は、私自身との沈黙の「会話」が始まったことに気付きました。静寂の「空間」には、永遠の「水滴」が木霊していたのです。それは、私の「精神」の「洞窟」にも反響して、それらが一体となったことが告げられました。暫くすると、翡翠を彫って造られたと想われる「玉座」が、「洞窟」の片隅から浮び上がって視えて来ました。それは、永久の眠りの「深海」に沈む台座のように、奥深い深緑色の光を静かに放っていたのです。それは、「記憶」のどこかに置き忘れたイメージのようでした。そのことに気付いた私は、あの「受胎告知」に描かれていた天使ガブリエルと聖母マリアを探しました。しかし、彼等はどこにも居なくて、傍らに咲いていた純潔と処女性の「象徴」であるホワイトリリーだけが、たった一本で孤独に耐えながら、私を待って居てくれたのです。「精神」の純粋性は保たれ、「玉座」に座るべき主は不在でも、沈黙の「会話」は続けられて来たのです。私は、この「夢」の世界から目覚めることを恐れました。その時の事でした。私の「胸部」が左右に開かれ、その割目から、一羽の穏やかで落ち着いた身振りの「白鳩」が羽ばたいたのです。私は、彼女を優しく両手で包み込み、どこまでも澄み切った「天空」に向かって解き放ちました。彼女は、この「神」の創り賜うた秩序ある「天空」を、全ての「情景」が遠近法的に消失する一点に向かって「飛翔」したのです。すると、彼女の飛翔の「軌跡」を追い掛けるようにして、ホワイトリリーの背後にあった「荒野」や、その先の「沼地」などが、まるで「神」の洗礼によって掃き清められるようにして、美しく麗しく「変身」を遂げて行くのでした。まさに百花繚乱の「楽園」が創られたのです。私は驚嘆の想いで、さらにその先を遠望しました。するとそこには、光り輝く「水面」がどこまでも拡がり、その「大海」から突き出るようにして聳え立つ「巨峰」が視えて来たのです。そして、その「巨峰」の斜面には「海港」が在り、真っ白の帆が眩しい数隻の「帆船」が停泊していました。私は、このどこか宗教的でさえある「光景」と、あの精神の「洞窟」、そして沈黙との「会話」との関係を考えざるを得なかったのです。その時の事でした。「白鳩」は、遠近法的消失点から、この世に飛来してくる「光輪」を通り抜け、その「光輪」は、なんと純白の百合の花のこうべに、奇跡に出会うが如く「降臨」したのです。
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by artbears | 2012-02-29 19:00 | 絵画

時間又は銀時計からの歩数、空間又は地下鉄からの階段、立ち上がった床と消えた足跡

東西の往来からの「入口」を連結した構造となっている、この「通路」は同時に、南北の新幹線からの「出口」と接続することによって、人々の「時間」の管理と制御を目的として「空間」が設計されていたのです。そこでは、「秩序」が放つ無機的で無臭の空気が漂い、あの「混沌」の放つ有機物の腐臭は消えていたのです。待ち合わせ場所である「銀時計」が13時13分を刻んだ時、得体の知れない「重力」が東から西に移動して、私の頭上で停止しました。改札口では、まるで潮が満ちるように人々が溢れ、そして潮が引くように人々は離散して行ったのです。そして、「時」の波打ち際である「銀時計」の前には、春の訪れを告げる桜の蕾のように初々しい「桜貝」が、一つポツンと残っていたのです。私は、その「桜貝」を大事に左手の平で包み、「通路」の反対側にある「金時計」までの「歩数」を右手の指で数えました。3本の指が折り曲げられました。「金時計」が16時10分を刻むであろう時、私達は西から東に移動しなければならなかったのです。「時」は悲しく切ない愛惜の情を断ち切るようにカウントダウンを始めていたのです。ここに在るのは「今日」であり、それが「昨日」になる運命だけが決まっているのです。そして、残された可能性としては、「明日」を見越して、あの忘却の彼方に消え行く「過去」を見詰め直し、そして「今日」を考えることにしかないのです。不慣れな「土地」を彷徨った私達は、やがて「地下」への入口に辿り着いて居ました。「地下鉄」へと連結した構造になっている、この「階段」は同時に、目眩がするように回転しながら「過去」へと落ちて行く螺旋状の「輪」でもあったのです。大勢の人々が、「渦」に巻き込まれて「階段」を降りて行くのが視えました。人々が追い掛けるのは、いったい何なのか。この「DNA」のねじれの「輪」が目指している「先」には、いったい何が在るのか。その「先」は、「過去」であると同時に「未来」でもあるように想われたのです。「地下鉄」は音もなくホームに滑り込み、偶然と必然の選別を経た老若男女の「集合体」が、各々の「染色体」の識別番号を背に付けて乗車したのです。「地下鉄」は急速に加速して、まるで弾丸のように一直線に「目的地」に突き進みました。凄まじい衝撃が起こりました。そして扉が開き、我先にと降車した人々は、各々の「目的地」に向かって、まるで蜘蛛の子を散すように霧散して行ったのです。私達の「目的地」とされた「場所」には、巨大な「構造体」が左右に並び建っていました。左の建物は螺旋状の「階段」が透けて見える構造になっていて、それは右の建物の「DNA」を視覚的に透視していたのです。私達はねじれながら上昇する「階段」を昇りながら、建物の「骨格」の合間から見え隠れする「絵画」の幻影に驚き、思わず息を呑んだのです。なぜならば、それらは、私達の脳裏のスクリーンに映し出された偉大な絵画の「集合体」であると同時に「染色体」でもあるように視えたからでした。それは、絵画の「歴史」そのものがリアルに生きる、バーチャルな巨大な「空間」だったのです。やっとの思いで最上階に上り詰めた私達は、いささかの肉体的・精神的な疲労感に襲われました。すると周りには、ミロ、クレー、ピカソなどの「絵画」が、まるで走馬灯のように回転する「光景」が幻視されたのです。それらには、「近代社会」との物理的・心理的な紐帯感が感じ取れました。つまり、「絵画」の中心性は失われることなく、「色」も「線」も形象化作用からの自由を得ていなかったのです。私達の好奇心は、対峙する「構造体」へと渡る決断を迫りました。頼りない連結橋の「床」が、私達の「存在」を支配したのです。そして、渡り終わった安堵感が宙吊りになった状態で、流動性の塗料が一面に滴り飛散する「床」に出会ったのです。その均質に拡散する巨大な「絵画」は、その細部の多様性に目を奪われている限り、そして、その暴力性に身を委ねている限り、その全体性を明らかにはしなかったのです。この「産業社会」の高揚感と矛盾、「個」の悲哀と孤独感、来るべき終焉への予感をすら描き切った「絵画」は、「床」から立ち上がって初めて、客観視することが出来たのです。「壁画」となった「床画」は、積層され隠蔽された絵画の「DNA」も赤裸々にしました。それは、この「構造体」の「階層」に対応した膨大な情報量の「空間」だったのです。私達は残されているはずのポロックの「足跡」を探しました。しかし、それは「床」の何処を探しても無く、諦めかけて見上げた「天井」に、「未踏」のキャンバスに残っていたのです。
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by artbears | 2012-01-30 20:09 | 絵画

一衣帯水の日本海、空想の中の満開の枝垂桜、脳内に再生された壮大な構想への回路

その男「Y」は、刻々と過ぎ去る無情の時間に天を仰ぎ、内心では、タクシーの運転手の信号無視を期待していたのです。そして、その女「E」は、脱兎の如くに、エスカレーターを逆方向に駆け上がり、二枚の樹皮繊維で出来た「切符」は、彼女の手の平のなかで、巣篭もりをする「子栗鼠」のように丸まっていたのです。自動改札機を通された「切符」は、「ぺらぺら」の白い半紙のサイズとなり、その中央には、「夢」と達筆で書かれた文字が現れて来たのです。「ひらひら」と半紙が床に舞い下りる寸前のところで、白い手袋がそれを拾い上げ、次々と白い手袋たちに丁重に扱われながら、最後には、黒いサングラスをかけた紳士淑女に手渡されて行くというシステムが採られているようでした。彼らの背後には、数台のエレベーターが引っ切り無しに昇降を繰返していました。そして、扉が開かれると、一枚の「夢」と書かれた半紙は、箱のなかに無造作に投げ込まれて、恐らく、エレベーターの急上昇の際に生まれる無重力の状態で、天空に向って、次々と運ばれて行く「運命」にあったのです。つまり、「夢」は決して地に落ちはしないのです。このようにして、無数の取りとめも無い「夢」が、世界のありとある「脳内」から毎夜毎夜生まれて来ては、この世に微塵の跡形を残すことなく、儚く消え去っているのです。そして、この「夢」たちが毎朝毎朝「無」へと帰するという悠久の循環構造こそが、時空を超えて、いつかどこかの「脳内」のなかに再生されるであろうという「仮説」の根拠でもあったのでした。それは正に、「方丈記」にある無常観であり、ハイデッカーの言う「現存在」の認識と、どこかで通底しているはずなのです。そう、「夢」は「夢」で、生命の循環の営みと同じように、不変の「命」を永遠なる運行の円環のなかに生きているに違いないのです。二枚の「切符」の行き先は、海を隔てた大陸の雄大な存在感が迫って来るかの気配に、日本海の荒波の潮気を乗せた風が入り混じった、異国への郷愁と畏怖が同居したような大気が支配する「場所」でした。そして、異次元の世界への大きな乗り物と命名された「寺」も、そこに存在していたのです。境内への石段の芯には、まだ冬の冷気が閉じ込められているようでした。しかし、境内の枝垂桜の蕾には、既に春の温もりが息吹いていたのです。そして、私たちを迎えてくれた黒い作務衣を着た修行僧は、全てを理解したかのような温和な微笑を口元に浮かべ、無言の内に「切符」を受け取り、あの天空に在るはずの「夢」と書かれた白い半紙を手渡してくれたのです。その「夢」と言う文字が、映像をスローモーションで逆回転するかのように、漉いた紙の繊維のなかに消えて行く様子に見惚れていた私たちが、頭をもたげると、そこには、あの「醍醐寺」の、未だ観たことのない空想のなかの枝垂桜が、満開に咲き誇っていたのでした。私たちの「夢」の一つは、バーチャルな空間のなかで実現したのでした。それは、視たいという「欲望」が、天空に存在する「夢」のデータバンクにアクセスして、ダウンロードされて来たからに違いないと想ったのです。そして今度は、ピンク色の桜花の雨が枝垂れて降り注ぐなかにあって、美しい二羽の孔雀が、大きな青藍色の飾り羽を小刻みに痙攣的に震わせながら、厳かに現れて来たのです。そのダーウィンの適者生存説では説明不可能なレベルの絢爛豪華さを前にして、私たちは、神が創り賜いし自然の奇跡的な「美」に打ちのめされたのです。この「孔雀の間」の襖を開くと、次に現れて来た空間は、「芭蕉の間」と呼ばれる部屋でした。その空間では、私たちは、芭蕉の葉で遊んだり、無心で蝶を追っている子供たちに注がれる、唐の時代の名将・「郭子儀」の愛情に満ちた視線と出会うように設計されていたのです。その視線とは、人間の「脳内」に在る、崇高な思想や高潔な人格、無垢な子供の純粋性と言った「善」なるものを直視し、それを呼び覚ます眼差しでもあったのです。そして、空間は直線的な展開を避け、L字型に屈折するように構成され、最後の空間である「山水の間」は現れて来たのです。そこには、バーチャル(脳内)な空間とリアル(現実)な空間とが、親和的で理想的な協働にある「真」の世界が描かれているように想われたのです。この「円山応挙」の壮大なる「構想」が、時空間を瞬時に超越して、私たちの「脳内」に蘇えって来たのでした。その「構想」が、大陸に向って、日本のオリジナリティを突き付ける「意図」と「強度」を秘めたものでもあったことも、「脳内」に記憶されたのでした。
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by artbears | 2009-03-30 20:56 | 絵画

山水に遊ぶさまざまな心、それらの映しとしての赤い金魚と蟹の爪のような樹、無声の詩

あなたが「赤い金魚が泳いでいる」と呟きながら、閉じた目蓋をゆっくりと開けようとしていた、正にその時、私は、あの天平の斑鳩の里の平遠な大地を心象に蘇えらせようと、開けた目蓋をしっかりと閉ざそうとしていたのです。ところが、淡墨を幾重にも重ねて生まれるモノトーンの暗闇から、ゆっくりと姿を現して来た生き物は、意外なことに赤い金魚ではなく、鱗から墨汁を煙霞のように撒き散らしながら泳ぐ、まるで鬼瓦のような無骨な顔つきの黒い蘭鋳だったのでした。蘭鋳は鰭を動かすのを止め、「すうっ」と近付き、そのまま私の目蓋の内側に止まったのです。背びれの無い蘭鋳の静止する姿は、張りつめた緊張の瞬間の連鎖のなかに、この奇形の生き物の悲哀と尊厳の歴史を無言の言葉で語り掛けているのでした。そして、その蘭鋳は、太く逞しい尾筒に推進のエネルギーを蓄え、一気に「ぶるん」と身体全体を使って、再び前方の淡墨の暗闇に消えて行ったのでした。暫くすると、その墨絵のような薄暗がりの拡がる空間に、仄かな朝焼けの気配が漂い、今度は、あなたの「黒い犬が吠えている」と言う声が、何処からともなく聴こえて来たのでした。私は躊躇うことなく、床の間に掛けてある一幅の山水画に見入ったのです。なぜならば、そこは私の心の「桃源郷」で在り続けた場所であり、声の発生源はそこに在るに違いないと思ったからなのです。「山水」は先ず一瞥すると、左右に空間を拡大し、下方の渓流の流れを遡るように、上昇する動勢は雲のように重力から自由となった岩石にまで一気に駆け上がって行くのです。そして急拡大した空間が一定の平衡状態に至ったならば、今度は、「じわり」と心洗われる光と酸素に満ちた大気が空間を埋め尽くして行くのでした。まさに「気韻」は生動し峻発して来るのです。生命が「自己複製を繰返すシステム」と定義されるならば、そしてエントロピーの極大化を回避すべく常に外部からの秩序を導入する動的で有機的な存在であるならば、この「山水」という静的で無機的な存在から湧き出して来る生命感にも例えられる「気韻」とは、いったい何を映し出し、何を再生しようとしているのだろうか。この永遠の謎が、私の脳内でいつものように無限のループとなるのです。それが仮に、心の理想とする境地や在り方を映し出す鏡のような存在であるならば、私たちは、この心象風景を観ることにより、その理想性を複製し、自らの内面に写し取ることができるのだろうか。そのようなことを考えながら歩いていた私は、「山水」の中腹辺りに在る、生命の源であり絶えることなく流れ続ける清流に架けられた小橋を渡り、山道に沿った岩肌にへばり付くようにして咲く山野草の可憐さを愛でながら、また時には巨木の大らかさに癒されながら、視界が大きく開かれる空間に辿り着いたのです。その空間には、赤、黄、橙など色鮮やかに紅葉した樹々の木立を背景にして、藁葺き屋根の慎ましやかな住いが、人と自然の理想的な調和の在り方として、私の目の前に現れて来たのでした。そして家屋の右手の崖淵には、「山水」では蟹の爪のような誇張を加えられた筆法で描かれていたはずの一本の「赤松」が、岩石にしっかりと根を張って、風雪に耐えながらも泰然とした風情で、人の処世の在り方を示しているのです。このように、「山水」の画面全体には、いくつかの象徴機能を付加された自然の景観と形象が、絶妙のバランス感覚の下に配置されていて、それらは無声の詩情を醸し出しているのです。家屋の左手の断崖には、小滝が永遠の時の営みの証を人為的な意図を排した線刻として残し、水はそのまま家屋の前方に在る小さな池の水源となっているのです。池はほとんど真円に近い形をしていて、鏡面のように澄み渡った青空を美しく映し出しているのでした。暫くすると、水面には五つの白い雲が漂うように映り、それらの雲は、中央の大きな雲を中心にして、左右対称に二つずつ並ぶという形式を取っていることが分かりました。その時、犬が吠えたのです。中央の大きな白い雲は揺れ、その前には大きな黒い犬が立っていたのです。私は、小さな四つの白い雲は、恐らく小さな四匹の黒い犬の影であろうと思ったのです。そして、確かに赤い金魚は、小さな池の中央に浮上して来て、尾鰭の一描きの生んだ波紋が、白い雲たちを消し去ったのでした。私は、この小さな池には、あなたの心が映し出されていたに違いないと思ったのでした。
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by artbears | 2008-11-30 16:35 | 絵画

ラスト・モダニストである抽象画家は、電脳化社会に咲くおぞましきクレマチスを幻視した。

確かにそのクレマチスは、イングリッシュ・ガーデンでよく目にするように、赤茶けた煉瓦の壁に蔦のように絡まって繁殖していたのです。そして、その蔓で他の植物や鉱物をしっかりと掴み取りながら自らを固定化している様子は、鉄線とか風車とか仙人草とかの日本名で呼ばれているこの花の風雅なイメージに反して、どこか西欧を原種の起源にもつ植物の残虐性(恐怖のカオス)のようなものを感じさせるのでした。その上、決定的であったことは、テレビのモニターに映し出されている女性の金髪と銀髪の混ざり合った髪が、ちょうど花弁のように変化したクレマチスの白い萼のように視え、顔の中央に集まった目鼻の不気味さ、取分け唇に厚く塗られた口紅の毒々しさは、正にあの「英吉利の薔薇」のように退廃的でおぞましきものに視えたのです。これは明らかに、私のクレマチスに抱いていた清楚でありながら、孤独に耐える精神性の高い花といったイメージを覆すものでありました。ところが、あなたからの「情報」によると、この「映像」のリアルな発生の「場」は、実は英国ではなく、私にとって最も日本的な「場」であるはずの京都であったと言うではありませんか。「映像」だけを視ていた私は、「言葉」の補完無しでは、もはや現実のリアリティを感得することは出来ないと実感したのでした。私の脳内において、秩序や認識の体系となる思考の基盤が「ドロドロ」と溶解するという感覚を経験することとなったのです。科学的思考により、「現象」を還元的に原理や秩序へと抽象化していく時代は終わり、情報化社会においては、脳内のリアリティが直接的に「情報」に反応し、モラルの歯止めが利かない状態で、新たな共同体(脳内ネットワーク)を求めて流出するという「現象」を生み出しているのです。私は、私の脳内においても着実に進行する、このおぞましき「現象」から目を背ける目的もあり、脳内のモニターのチャンネルを「映像」から「記憶」へと切り換えることにしたのです。そこに蘇えって来たイメージは、秩序ある安定した美しさと安らぎのあるものでした。時折、頬に心地良く当るそよ風に秋の気配を感じながらも、相変わらずの夏の容赦ない強い陽射しに辟易していた私たちは、この高原に在るプラットホームに降り立ち、仲良しの子猫たちがよくするような大きな背伸びをしたのです。どっしりとした存在感を競い合うかのように連なる山々の稜線には、ゆっくりとしたスピードで雲々が這うようにして移動して行くのが観えるのでした。私は改札を足早で通り抜け、その時に、あなたの横顔が反対側のプラットホームへと連絡する陸橋の窓の枠内に、まるでフイルムの一駒一駒のように移って行くのを確認したのです。あなたはきっと、杉の木立が真っすぐに天を突き刺すように茂る森林を目指していたに違いありません。そして、その森林の奥深くには小さな湖があり、その湖畔に在るお伽の国の山小屋で、エメラルド色の目を輝かせる猫となって、私の訪れを待っていてくれるのに違いなかったのです。一方、私は「Crank Painter」と呼ばれる画家のアトリエを訪問することになっていました。このモダニズムを体現して来た、かつては抽象絵画を描き続けて来た画家のアトリエにも、クレマチスはたくさんの具象絵画となって繁殖していたのです。絵画化されたクレマチスは、やはり日本的なフォーマリズムに則ってか、鉢植えのごく常識的な表面を装っていました。しかし、その「IREBANA」と題された絵画には、グローバルな規模で進展する電脳化社会の構造が、思考の遠近法で見事に描かれていたのです。入れ歯(老死)と生花(生命)の並列的同時対比、言葉の駄洒落による諧謔性とニヒリズム、あらゆるタブーとされた感覚のボーダーレスの状況、そして何よりもここ(絵画)には、横溢する悪意とおぞましきものが在ったのでした。私は、画家のまるで哲学者のような鋭利な思考によって描き出された、この来るべき「現実」(バーチャル・リアリティ)のおぞましさを前にして、ただただ平穏なる世界を想い描いたのでした。その時、側らに立掛けてあった「Cicada(蝉)」という絵が目に入ったのです。その絵とは、二人の裸体の男性が逆さになりながら絡み合って、蝉のように一本の樹にしがみ付いて「死刑」を待っているという「絵画」だったのです。私は、その絵のなかに在る何本もの直立した杉の木立の暗がりの向こうには、きっとあの湖への道が拓かれていると確信したのです。
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by artbears | 2008-08-31 17:59 | 絵画


ソフトマシーン・やわらかいきかいのひとりごとです
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