赤い薔薇の「花」を胸ポケットに忍ばせた「男」は英国紳士然としていたのですが、彼の差しかざすフォックスの黒い蝙蝠傘とは、どことなく不釣り合いな歩き方をしていたのです。それは、一歩進んで二歩退がる、三歩進んで二歩退がる、「前進」とは言えないが、「後退」とも言えない。足踏みとは呼べないが、二の足を二度も踏んでいる。それは、自らの「影」を踏むことを極度に恐れていたのです。
弱々しい「太陽」の「光線」が、それでも落下傘のように降りて来て、行き場を失った「影」が右往左往している。雨でもないのに蝙蝠傘は開かれて、遣り場を失った「影」が三々五々と集まっている。そもそも英国の「離脱」か「残留」かの選択は、気紛れなサイコロの「意志」に委ねられていたのです。欧州の市民社会の「良識」が急速に消えていく。EUの「幻想」が同時に消えていく。下部構造の「断層」が上部構造の「亀裂」を招いている。起こるはずのなかった「事態」が、事もなくあっさりと起こり始めたのです。国境の無い欧州の「夢」が終わり始めたのです。
時として、紅く血に染まった「石畳」が本来の「色彩」に戻ったのは、白い麻のスーツに身を包んだいかにも英国紳士然とした「男」が、遠くから近付いて来るのが視えたからかもしれない。彼の足取りは、まるで小高い「丘陵」に吹く「微風」のようにして、山深い「渓流」に澄む「清水」のようにして、優しく軽やかに流れるようでした。
時として、「記憶」が「夢」を引き寄せることがある。逆に「夢」が「記憶」を呼び覚ますことがある。過ぎ去った「時間」の絶えざる流れではなく、途切れ跡切れの「瞬間」が目の奥に浮んで来ることがある。それは、手の平から零れ落ちる「清流」の一滴一々の如く、その「純水」の最初にして最後の驚きと輝きをもって訪れる。
小さなハリネズミが、大きな「毬栗」のようになって、舗装された「道路」の真ん中で真ん丸くなっていたのです。薄っすらと開いた「目蓋」からは、透明な「世界」が「純水」となって触れて見えたのです。彼は決して自尊心と虚栄心の「動物」ではない。彼は「恐怖」の「感情」の固まりとなって、自らを守る「鎧兜」となっていたのです。
白いスーツの「男」が上着を脱ぎながら、足早に近付いて来るのが視えました。赤いスカーフを首に巻いた「女」が遠くで振り向いたのです。彼女の薔薇色の「唇」が動いて、誰かに何かを叫んでいる。それでもハリネズミは動く素振りを見せない。大型トラックが「石畳」を越境して「道路」に侵入しようとしていたのです。
私はかつて目撃した。その「光景」が、「夢」のなかで再現されたことの不思議を想ったのです。黒い蝙蝠傘が白い落下傘に変わる。浮遊感とともに舞い降りてくる。白くて柔らかい上着が硬直したハリネズミの「身体」を優しく包み込んだのです。「毬栗」は自然に戻されて、やがて自らを開いて、新たな「一歩」を踏み出したのです。清々しい「小川」の絶えざる流れが、自然の永遠のリズムとハーモニーを奏でていました。遠い遠い「夢」の奥の奥に眠る「記憶」から、欧州の「良心」を垣間見た想いが蘇って来たのです。
反復される「夢」、変質される「夢」、その度に確実に齢を重ねる「私」、全く同じ「夢」が繰り返されることはない。そこには、「記憶」の経験と蓄積と創造が関わっているに違いない。「夢」の中の「空間」は神出鬼没に現れては消えていくが、「夢」の中の「時間」にはどこか連続性が在るように思えてならない。「夢想」が与える「恐怖」のシナリオが現実化しようとしている。主は与え、主は奪おうとしている。
わずかな「偶然」が「世界」を変えようとしているのかもしれない。それが、「歴史」の「意志」なのかもしれない。東方に向かって拡大するマルク経済圏、北方に向かって流入する異教徒移民、内部から湧き起こる排外的民族主義、欧州の理想主義と規範主義が創り上げたシステムの「崩壊」が始まったのです。英国の「離脱」なのか、それとも「脱出」なのかも判らない。新たな高い「壁」を築かなくてはいけないのだろうか。その内側で、果たして欧州の「精神」が守られるのだろうか。